《私の本棚 第324》   令和5年3月16日 号

          「 坑 夫 」   夏目漱石 作

  艶子さんと澄江さんという二人の女性、その周りに居る親・親類の関係でどうにもいたたまれ無くなって、夜の九時頃に東京の自宅を出奔。何処かで死のうと思っている 「自分」 は松並木の日光街道を通って、あてもなく北へ歩き通し、ぽん引き周旋屋に苦も無く丸め込まれて坑夫に斡旋されます。連れて行かれたのはどうやら足尾銅山のようです。家柄も良く学問もありますが、自分を取り巻く人間関係が嫌になってもう死んでやるという投げやりな気持ちでいました。初日は実態見学という形で連れられて穴に入って行きます。今のように電灯の明かりなどはありません。カンテラの灯が唯一の明かりです。そもそも人間が働く環境では無い事を身を持って知ることになりました。穴から出ようとして迷いますが、教育も受けたのに訳ありで坑夫になった安さんに助けられます。坑夫になるのには健康診断を受けて合格する必要があります。しかし気管支炎で不合格。その後運良く帳簿付の仕事をあてがわれ5ヶ月働いたあと東京へ戻ります。

 全体的にはこんな内容ですが、日光街道や足尾銅山という名称はでてきません。街道はその表現から推測できますし坑夫が必要な山なら足尾と言うことになります。この 「坑夫」 は明治40年1月から新聞連載が開始されました。明治40年2月には、足尾銅山の坑夫 千人程が劣悪な労働環境に不満をもって暴動を起こしています。連載開始時に漱石は予想をしていなかったのかも知れませんが、早くから何かと噂が立っていたのでしょう。そうした背景から虞美人草に続く作品として、読者に読みやすい事を念頭に置いて筆を進めたのではと思います。更にこれは取りも直さず漱石自身の今ある状態、大学教授の道を捨てて当時としてはさしたる評価がされていなかった小説家の道を目指す心中を表現したものとも理解できます。

 人生においてどうにもならない行き詰まり感は誰にでもあり得ます。良家のお坊ちゃんである 「自分」 を主人公にして、もうどうなってもいい死んでやると意気込ませます。とは言うものの、小銭しか入っていないけれどかなり上等の財布はぽん引きにあっさりと何気なく持ち去られ。凡そ人間の食うもので無いような飯しか食えない。布団は薄っぺらで虱だらけ。試しに連れ込まれた坑道は毎日大勢の死人が出る、とても人間が仕事をする環境では無い。死んでやるという思いも、ふわふわと漂う様な感じに変わってくる。同じ仲間になる予定の坑夫達は皆人間の顔つきではなく、薄汚れて無表情で私を馬鹿にして掛かってくる。遂には健康診断で不合格になったのが幸いして、帳簿付の仕事をあてがわれ、坑夫達も一目置いてくれます。

 辛抱して努力すれば良いこともあるという話では無く、 「自分」 のような精神状態のときは、理解不能の行動を起こしたり、意味不明の現実に出会う事がある。真っ暗闇の中這いつくばって進んだり、奈落の底へ落ちていくような立て坑を垂直の梯子で降りたり。ただ歩くだけでも途轍もなく苦しい経験。そんなときには何気ない言葉を掛けて貰うだけでも有り難く、気持ちが救われるような経験になることを表現しています。言ってみれば、こんな世界やご縁があるという話しで、読みやすくて世情とのタイミングから読者は楽しんだと思います。

 第二十回の段には遠近法が詳細に述べられています。文中には 「遠近法」 という言葉は忘れてしまったことにして、どういうものかを詳しく表現しています。一般庶民にはそういう理屈は耳新しいものだったと思われます。更に二十一回には 「往来の真ん中を歩く」 という表現で、交通事情が目に浮かんで来ます。読者である私の小学三年生頃でも、都会では無いですが舗装された道の真ん中で寝転がって遊んでいた記憶があります。当時は自家用車 (とは言っても360ccの軽自動車) を所有している人は極めて希でした。
あんな本こんな本、坑夫、漱石、足尾銅山地図





大内宿は街道のイメージ参考

















日光東照宮






あんな本こんな本、漱石、坑夫、岩見銀山街道
足尾銅山とは関係ありませんが、坑夫の集落
イメージとして写真を掲載します。

訪れた事のある岩見銀山街道の町並み。

生野銀山延沢銀山は近くを通りかかったこと
があります。


・・・第168回直木賞作品、岩見銀山を舞台にし
た 「しろがねの葉」 を読もうとしました
が、私には受け入れ難く途中で放棄しま
した・・・

フランスにはゾラの作品があります。
あんな本こんな本、漱石、坑夫、岩見銀山羅漢寺 


羅漢寺の五百羅漢
あんな本こんな本、漱石、坑夫、銀山川と西性寺 


銀山川と西性寺

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