《私の本棚 第346》 令和7年1月3日 号 「道 草」 夏目漱石 作 漱石の自叙伝作品 1915年6月 - 9月、『朝日新聞』連載 |
【十四】 健三 (漱石) と御住 (おすみ) (※健三の細君で戸籍なら 「住」 =漱石の嫁 (鏡子) を表現) との会話が出てきます。その中で、漱石と細君の意思疎通が微妙な食い違いで噛み合わないことが表現されています。そしてその原因を健三はしっかりと把握し、呑み込んでいます。これは当時の夫婦関係が現在とは全く異なり、女 (妻) の行動すべき事柄や通常の会話で発言する内容をよく表していると思います。 更に健三は、自分の頭脳が明晰だからと言う訳では無く、妻の受けた教育と自分の受けた教育が全く異なるから、妻が自分の心中を察し得ないことは仕方無いと収めています。時代を背景にした夫婦関係が鮮やかに浮かんできます。《第337号「門」の令和6年9月2日追記》 を参照して下さい。 その夫婦関係を多くの知識人達の偏らず穏やかな目線で綴っていると思われるのはWikipediaのサイトです。 |
【二十九】 ある日一人の青年との世間話から広がって、自分の過去を次のように言っています。 「―― その実僕も青春時代を全く牢獄の裡で暮らしたのだから」 と。 健三の言う牢獄とは、養子時代と学問=学校と図書館をイメージしていました。しかし勿論健三の心に在るのは、「だから自分はダメになったと言うのでは無く、反対にそれが無ければ今日の自分は存在していない」 と、弁解的・自嘲的に発言すると同時に、「是非ともそれを基礎にして未来の自分を築く必要がある」 と考えていました。 ・・・・・・ 一読者の感想としては、「主人公の健三のように、自分でも意識しないままに物事を深く理詰めで考えるばかりでは、広く世に受け容れられる人間には成れない。1905年の (吾輩は猫である) や (坊ちゃん) のように世間に楽しまれるような物語を書きつづけたいという意識が1915年作の道草に表現されたのでは」 と感じます。・・・・・・ 自分は自分なりに成長し変化する必要があると考えると同時に、妻である御住にはそんな自分のことがどう見えるだろうと考えていました。 つまり、学者の道をうち捨てて、あまり評価の高くなかった作家の世界に入った自分を・・・。 |
【三十八~四十三】 自分が養父母と共に暮らすようになってからのことを回想しています。しかし一度目の記憶は無く、二度目の記憶も幼少ということもあってか、ボンヤリと部分的なものでしかありませんでした。二度目の養父母 (島田夫婦) が将来 「金という支援」 を得るという欲の為に自分の気を惹こうとしていることは見透かしていました。そんな状況から健三の気質は、本来持っていた状態から損なわれ、それを埋めるのは強情の二文字だったと述べています。 そのうちに島田夫婦は仲違いを起こして離縁。健三は何やらよくわからない状況で実家へ引き取られました。 |
【七十一】 義父 (中根 重一) の栄枯盛衰が表現されています。しかしこの段にくるまでに、養父母をはじめとして多くの肉親達の同じ様な状況が書かれていました。もしこれらが本当の話なら・・・嘘ではないと思いますが・・・作家としての評価しか知らなかった私には、胸に迫って強い息苦しさを感じます。 |
【七十八】 第一子を流産した折りの御住 (鏡子) の精神状態が此処で明かされています。妻のヒステリーな行動・錯乱状態で心が安まらない健三。 「門」 を参照して下さい。 |
【七十九】 冒頭には【十四】に書いたように、健三と御住の、つまり男と女の物事の捉え方の大きな相違が表現されています。 (参: 「門」 の 〔これを追記している時〕 ) |
【九十一】 波乱の幼少期。母千枝は28歳で父の後妻に。漱石を生んだのは父直克50歳 千枝41歳。当時としてはかなり高齢。結果子だくさんの為、父は金之助に対する愛情は希薄というより皆無で屑扱い。それ故、金之助を養子に出したが、受け容れた子無しの義父母は 金之助を将来の 「金蔓」 という心で可愛がったらしい。 次の自問が書かれています。 ---「然し今の自分は何うして出来上つたのだろう」 彼は斯う考へると不思議でならなかった。其不思議のうちには、自分の周囲と能く闘ひ終せたものだといふ誇りも大分交じってゐた。そうしてまだ出来上らないものを、既に出来上つたやうに見る得意も無論含まれてゐた。彼は過去と現在との対照を見た。過去が何うして此現在に発展して来たかを疑がった。しかも其現在のために苦しんでゐる自分には丸で気が付かなかった。--- 「お前は必竟何をしに世の中に生まれて来たのだ」 と苦しみををつぶやいています。 |
【全体として】 1916年12月9日に 「明暗」 を執筆中に49歳で亡くなられました。その人生は夏目家没落途上の実父から 「お前は何で生まれて来たのか」 とばかり疎んじられ、野っ原にでも投げ捨てるようにして里子にだされました。どの辺りに書かれていたか忘れましたが、恐らく漱石の記憶の奥深くに刻まれたこの事実が、独り言のように、自分の子供に関しても 「女は妊娠ばっかりしやがって」 という言葉になったのでしょう。御住もあっさりと返しています。 養父母は単に 「自分達が老いた時に面倒を見てもらいたい」 との思いだけから、金之助を可愛がるそぶりをしていました。幼い金之助は彼らの心を見抜いています。妻鏡子の実家も夏目家と同様の時代変遷の中にありました。養父母が離縁した後も、それぞれから金の無心を受けますし、鏡子の父親からも同じ無心をうけました。普通の夫婦でも互いを 「理解」 することはなかなか難しいのに、何倍も難しい状況を生き抜いていました。精神的にも厳しい状況にありながら、ハッキリした考えの基、大学教授の席をなげうって作家の道へ。健康面では胃潰瘍と自分の生い立ちから来る精神的苦痛を押し退けて懸命に生きてきました。胃・十二指腸潰瘍は私も入院経験がありますが、一寸した心労を持つだけでも胃痛が起こります。早期にピロリ菌を除去すれば快癒し予防もしますが、当時は薬がありません。そのような状況で多くの優れた作品を残された事と、精神的に崩れ落ちないで人生を生き抜かれたことに対して 「凄いなあ」 という言葉では言い尽くせないものを感じます。 (令和6年9月6日追記) この感想文を書き終えて数日後、時々ページを開いていた河合隼雄先生の 「心の処方箋」 に書かれた 「道草によってこそ 『道』 の意味がわかる」 という一文に出会いました。私はもともと本を開いても目次には無頓着です。で、この瞬間、何だか漱石の 「道草」 のような題だなと思いながら読んでいると、「こんなことを考えたのも、実は漱石の 『道草』 を読み直す機会があったからである」 という言葉から進められていました。河合先生は漱石の目線を、「高い視点からの 『目』 の存在が感じられてくるのである」 と書かれています。 しかし私は、漱石の強い精神力と哲学的思考を感じます。 |
フリー素材 「道草によってこそ道の味がわかるといっても、それを味わう力をもたねばならない。そのためには漱石の『道草』ほどまでにはいかないとしても、それを眺める視点をもつことが必要だと思われる」 ―河合隼雄著 「心の処方箋」―より |
前の頁、別れ 次の頁、 Vol.Ⅲ.目次へ Vol.Ⅲ.トップ頁 Vol.Ⅱ トップ頁 Vol.Ⅰ トップ頁 (1)吾輩は猫である(1905.01~1906.08) (2)倫敦塔(1905.01.) (3)カーライル博物館(1905. ) (4)幻影の盾 (1905.04.) (5)琴のそら音(1905.07.) (6)一夜(1905.09.) (7)薤露行 (1905.09.) (8)趣味の遺伝 (1906.01.) (9)坊っちゃん(1906.04.) (10)草枕(1906.09.) (11)二百十日(1906.10.) (12)野分 (1907.01.) (13)文学論 (1907.05.) (14)虞美人草 (1907.06~10) (15)坑夫 (1908.01~04) (16)三四郎 (1908.09~12) (17)文鳥 (1908.06.) (18)夢十夜(1908.07~08) (19)永日小品(1909.01~03) (20)それから (1909.06~10) (21)満韓ところどころ (1909.10~12) (22)思い出すことなど (1910~1911) (23)門(1910.03~06) (24)彼岸過迄 (1912.01~04) (25)行人 (1912.12~1913.11) (26)私の個人主義 (.1914.) (27)こころ(1914.04~08) (28)硝子戸の中 (1915.01~02) (29)道草(1915.06~09) (30)明暗 (1916.05~12) |