《私の本棚 第295》   令和2年12月21日号

    「カーライル博物館  (漾虚集より)」  夏目漱石 作

 倫敦塔 (12/24掲載予定) でもそうでしたが、この短編でもやはり書き出し方を探っていますね。最初の原稿用紙 (現代の) 2枚分程は眼前に現在進行中の様子を描写しています。演説中の弁士と偶々行き会った哲学者が冗談を交わします。しかし更に読み進めると何やら糸がもつれてきます。注解に拠ると公園の一隅で演説弁士を見たのは確からしいのですが、哲学者カーライルと弁士の会話は単なる物語のようです。漱石は2年間の留学中に下宿先を5度代えているのですが、カーライルが倫敦に出てきて住居を探すのに四苦八苦し、最後には細君の決断を仰いだ事を親しみを込めながら笑っています。その細君の答え方が面白い。まるで才知ある日本の武家奥方が答えたような、思わず此方の背筋が伸びるような表現しています。夏目家を重ね合わせたのかもしれませんね。
 この箇所は漱石が生まれた環境に負うところがあるでしょう。夏目家は町方の名主で広範囲を支配していたとあります。現代の東京都牛込喜久井町は夏目家の家紋 (井げたの中に菊の紋) から出ているらしく、夏目坂という名称も残されています。漱石の奥様も相応しい家柄のようです。つまりそのあたりの環境を英国の哲学者夫妻と日本人の自分を重ねて表現し、読者をくすぐっているように思います。
 そこからやおらカーライル博物館を訪問します。博物館はカーライルの没後14年を経た明治28年にCarljyle's House として公開されたという事ですから、明治33~34年に訪れた際の書き出しは物語であることが明らかになります。見学をしていると、1階の本棚には難しい本・下らぬ本・古びた本・読めそうも無い本があります。更に2階にも矢張り読めそうも無い本・聞いた事のなさそうな本・入りそうも無い本があります。勘定をしたら135部あったと描かれています。この135部というのは本当の話で、 「学燈」 明治38年2月15日号にカーライル蔵書目録として発表しているらしいのです。そのあたりは矢張り国費留学生ですね。3階には 「風呂桶が九鼎の如く・・・」 と感想を書いていますが、九鼎とは注解に拠ると中国の禹王が献上受けた鼎とあります。博識ですね。そして壁には彼のデスマスクがあったと描かれています。(漱石最後の大正5年12月12日に津田青楓という画家が漱石のデスマスクのスケッチを残しています)
 1時間の見学後外に出ると、それまで思いを馳せて浸っていたカーライルの世界は、その家共々別世界のように遠くへ去って行ったと括っています。読み手によっては時に、そんな難しい事を言わなくてもとか知識の披瀝とか感じる人もいるかも知れません。しかし私は、当時の漱石にしてみれば、その表現その言葉がごく自然にそして端的に言いたいことが表せると考えていたのではないかと思います。
 
あんな本こんな本、秋田県鷹巣、大太鼓の館内部壁画 




 秋田県鷹巣

 大太鼓の館  内部壁画

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   (1)倫敦塔  (2)カーライル博物館  (3)幻影の盾  (4)琴のそら音    (5)一夜   (6)薤露行  

   (7)趣味の遺伝   (8)坊っちゃん   (9)吾輩は猫である  (10)草枕   (11)二百十日  

   (12)野分   (13)文学論   (14)虞美人草   (15)坑夫    (16)文鳥    (17)夢十夜  

   (18)三四郎    (19)永日小品   (20)それから   (21)満韓ところどころ   (22)門  

   (23)思い出すことなど   (24)彼岸過迄   (25)行人   (26)こころ   (27)私の個人主義  

   (28)硝子戸の中   (29)道草   (30)明暗