《私の本棚 第310》 令和4年1月1日号
「 野 分 」 夏目漱石 作
読書感想文をどう纏めれば良いのか迷いました。明治40年1月 (115年前) 作、 一か月に満たない間に書き上げています。 登場人物は白井道也・高柳・中野の三人が主となり道也の妻と中野の許嫁は当時の女性の考え方を表す為に添えられたかと思います。 文学士の道也は越後・中国・九州各地の田舎教師を勤めたが、生徒達の教師に対するからかい苛めが引き金となって東京へ戻ります。流石に妻は生活に対する不安を口にしますが、道也はそのときには「人格論」を250頁まで書いていました。金の二百円くらいならそのうち入るさと金銭に関しては栁に風の体で動じる気配がありません。 同じく文学士の高柳青年はどう生きるべきか模索中ですが、生活は地理学書を翻訳して得る僅かな金で糊口を凌いでいます。高柳と同い年で大親友でもある大学の同窓生、中野も文学士ですが大層な金持ちの息子で、雑誌取材に対する発言は遊び程度のものです。 此の三人と女性二人のそれぞれの立場の相違から読者に対して問いかける或いは自説を論じる形になっています。前年には坊っちゃんを書いていますが、その流れを多少絡めながらも自身は如何に生きるべきか、強い思いを述べています。 |
「七」 に幾多の苦しみを抱える道也と高柳、金がある故に穏やかな善人として暮らす中野とその許嫁を表現する次の文章が在ります。---尤も我儘なる善人が二人、美しく飾りたる室 に、深刻なる遊戯を演じてゐる。室外の天下 は蕭寥たる秋である。天下の秋は幾多の道也先生を苦しめつゝある。幾多の高柳君を淋し がらせつゝある。而して二人は飽迄も善人である。---- 善人の二人は中野の大親友である高柳君の事を誠実に心配するものの、確たる重みの無い単なる世間話に終始します。 |
「八」 には高柳に対する次の表現があります。 ----「君は自分丈が一人坊っちだと思ふかも知れないが、僕も一人坊っちですよ。一人坊っちは崇高なものです」 高柳君には此言葉の意味がわからなかった。 「わかったですか」 と道也先生がきく。 「崇高......... なぜ・・・・」 「それが、わからなければ、到底一人坊っちでは生きてゐられません。━━━君は人より高い平面に居ると自信しながら、人 がその平面を認めてくれない為に一人坊っちなのでせう。 然し人が認めてくれる様な平面ならば人も上ってくる平面です。芸 者や車引きに理会される様な人格なら低いに極まってます。それを芸者や車引きも自分と同等なものと思ひ込んで仕舞ふから、先方から見くびられた時腹が立ったり、煩悶するのです。もしあんなものと同等なら創作をしたって、矢っ張り同等の創作しか出来ない訳だ。同等でなければこそ、立派な人格を発揮する作物も出来る。立派な人格を発揮する作物が出来れば、彼らからは見くびられるのは尤もでせう」 「芸者や車引きはどうでもいゝですが・・・・」 「例はだれだって同じ事です。同じ学校を同じに卒業した者だって変りはありません。同じ卒業生だから似たものだらうと思ふのは教育の形式が似てゐるのを教育の実体が似てゐるものと考へ違した議論です。同じ大学の卒業生が同じ程度のものであったら、大学の卒業生は悉く後世に名を残すか、又は悉く消えて仕舞はなくつてはならない。自分こそ後世に名を残さうと力むならば、たとひ同じ学校の卒業生にもせよ、外のものは残らないのだと云ふことを仮定してかゝらなければなりますまい。既に其仮定があるなら自分と、ほかの人とは同様の学士であるにも拘はらず既に大差別があると自認した訳ぢやありませんか。大差別があると自任しながら他が自分を解してくれんと云って煩悶するのは矛盾です」 ---- |
この一頁余りの文章は、漱石が確たる信念をもって学者から小説家の世界に足を踏み入れた (明治40年4月、一切の教職を辞して朝日新聞社に入社) 思いを表現していると思われます。読者の私は一人二役 (道也と嫌な咳をする高柳) の自問自答形式哲学だとも感じました。後日、兄や妻の心配を何ら気にすること無く演説会を開催します。その演説会には高柳も聴衆者として参加。三百人の聴衆は壇上の演説者を冷やかしてやろうと構えていましたが、人の生きる道を本題とする講演の心髄に静まり返ります。社会上の地位は金で決まることが多いが、明治も40年を過ぎたのだから学問で生きる道を極めよと説きます。高柳も大喝采、聴衆はみすぼらしい身なりの道也先生に完敗です。吹きまくる木枯らしは屋を動かして去ります。 内容は恐らく書いている途中の 「人格論」 の一部であったでしょう。高柳は聴衆をして自分の味方に引き入れる道也先生を目の当たりにして感激します。実は道也先生が今のようなみすぼらしい姿で頑張る事になった切っ掛けは、かつて先生の弟子 (教え子) であった時代に他の生徒達と一緒になって苛めて中学を追い出した記憶があるからです。先生は演説の中で経済・金持ちとそうでない者などについて述べます。高柳は、雑念を排してひたすら信念に向かって進む道也先生と些事にばかり気を取られている自分に気づきます。 私はいつもと同じく此の本を二度読み返しました。メモを取りながら読んだのですが、そのメモを見返しても読書感想を上手く纏められません。しかし読みながら感じた事 (どの作品でも同様ですが) は漱石の博学さです。英文学・芸術・漢文学・古典書・宗教哲学・俳句・詩などがそれとなく引用表現されます。 (私には研究者の注解があればこそ分かる事です) そういった奥深さが、今も世界で作品が読み継がれている事の、理由の一端であるような気がします。うっかり読むと人物の特定が出来ない。しかし二度三度と読むと全く新しい疑問や気づきが出てくる。とても奥が深い作品ばかりです。私なぞはただ一般の読者ですが、何かしらの知識を持った読者が読んでも、また初めて気づかされることに出くわすのだろうと思います。 私はこの作品は異形の哲学書と感じました。学び途上の青年達が読めば、日頃悩んでいることの根本に多少なりとも気づくことができるような気がします。 1907年(明治40年) 1月 ・ 『野分』を『ホトトギス』に発表。 4月 ・ 一切の教職を辞し、朝日新聞社に入社。職業作家としての道を歩み始める。 |
室戸岬 (四国一周サイクリングの下見時) |
前の頁、大地 次の頁、タタール人の砂漠 Vol.Ⅲ.目次へ Vol.Ⅲ.トップ頁 Vol.Ⅱ トップ頁 Vol.Ⅰ トップ頁 (1)吾輩は猫である (1905.01~1906.08) (2)倫敦塔(1905.01.) (3)カーライル博物館 (.1905.) (4)幻影の盾 (1905.04.) (5)琴のそら音 (1905.07.) (6)一夜 (1905.09.) (7)薤露行 (1905.09.) (8)趣味の遺伝 (1906.01.) (9)坊っちゃん (1906.04.) (10)草枕 (1906.09.) (11)二百十日 (1906.10.) (12)野分 (1907.01.) (13)文学論 (1907.05.) (14)虞美人草 (1907.06~10) (15)坑夫 (1908.01~04) (16)三四郎 (1908.09~12) (17)文鳥 (1908.06.) (18)夢十夜 (1908.07~08) (19)永日小品 (1909.01~03) (20)それから (1909.06~10) (21)満韓ところどころ (1909.10~12) (22)思い出すことなど (1910~1911) (23)門 (1910.03~06) (24)彼岸過迄 (1912.01~04) (25)行人 (1912.12~1913.11) (26)私の個人主義 (.1914.) (27)こころ (1914.04~08) (28)硝子戸の中 (1915.01~02) (29)道草 (1915.06~09) (30)明暗 (1916.05~12) |