《私の本棚 第303》   令和3年8月3日号

      「一夜 (漾虚集より)」    夏目漱石 作

 分からない・・・よく分からない・・・というのが一読目の感想。凡そ作家の書いたものでここまで腑に落ちないものは他にあるだろうか?それとも自分の読解力不足なのか。二度三度と読み返す。そもそもこの三人を明瞭に認識し難い。メモ用紙に部屋の見取り図を書いて三人を座らせた。この図を見比べながらもう一度読み返す。何となく薄明の気配。定本漱石全集の解説を繰り直すと、題名の後にヒントがあった。「吾輩は猫である」の登場物が 「一夜(ひとよ)」 にふれて話す場面が引用されていた。その中で、送籍(そうせき)という男が一夜という短編を書いたが、読んでも朦朧としているので本人に問うてみたが本人もそんなことは知らないと答えた、とある。私も猫は読んだことはあるが、当時 「一夜」 は読んだことが無かったのでそこまでは意識が及ばない。
 「吾輩は猫である 」は明治38年1月から明治39年8月にかけて執筆。「一夜」 は明治38年9月に書いたから、そのことを 「吾輩は猫である」 に会話として挿入したものと思われます。ここまで来ると何となく夜が白んでくるような感じがする。湯上がりの男女三人が庭に面した一部屋で、語るでもなく瞑想するでも無く互いの言葉を受けては長い沈黙のあと返す。更に何度か読み返していると、男二人は共に何となく漱石自身かと思われてきた。一方の髯(ほおひげ)のある男と髯の無い男はどちらも漱石ではないか?自問自答しているのではないだろうか。そうして又何度か読み返すと、この三人は既に入浴済らしいと感じる。格別な表現はないが、女は洗った髪を整えるでなく団扇であおいでいる。それならば、蚊取り線香を焚く必要がある時期、男二人は当然湯浴み済であろう。この時代、絶対に女が一番湯は浸かっていない筈。この場に居る三人は思いつきのまま言葉を口にする。その言葉は現実離れしたもの。そしてその中に男女間の心の揺らぎも話す。その時の男達の言葉とそれに対する女 (ある理由で女でなく男=漱石ではないかとも感じる) の表情変化が素晴らしい。と言っても令和の時代に生きる女性ではなく、明治の女性なので限りなく奥ゆかしい。当時、自由な恋愛というものが一般的に存在したのか否か、在ったとしたらどのようなものであったのか想像の及ぶ所では無いが、恐らく絹団扇を揺るがせるような風情であったのだろう。三人は、夜も更けたのでもう寝ることにしようとなるが、漱石の書いたものですから単純ではない。八畳の座敷で思い思いに床につく。女は美しい目と髪をもっていることを忘れ、男は髯のある事を忘れいま一人の男は髯のないことを忘れて、この日の一夜を終えた。
 この時期の漱石は色々と試行をしていたと思います。この一夜には漱石自身と登場者を重ねながら、自分の思いを男二人に会話させてその場に引き込もうとしています。更には当時の恋愛感や表現の方法も試しているのではないか。この三人は先ほどまでのことを全て忘れて寝入りますから、ある意味で短い生涯 (思索) を終えたのかも知れないし、この女性の形を借りて、漱石自身が新しい時代の恋愛とは如何なるものかを思索しているのかも知れない。つまり、寝苦しい夏の夜に夢を見た自分が、髯のある男になり、かつ髯の無い男になり、はたまた美しい女ならばこの様に振る舞うのではないかと夢を見ていた、と表現しているように解釈しても良いような気がします。 
あんな本こんな本、一夜、漾虚集、漱石 


 平等院

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