《私の本棚 第336》 令和6年6月7日 号 「それから」 夏目 漱石 著 |
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1909年 (明治42年) 6月27日から10月14日まで、東京朝日新聞と大阪朝日新聞に連載されました。 登場人物は全員が当時の社会を理解する上で大切な働きをしています。勿論、今の時代から見ればということもありますが当時でも同様であったと思われます。「それから」 と題して筆を進めた漱石の念頭にあったのは、代助・友人の平岡・平岡の妻三千代でしょう。代助自身のおかれている働かなくても暮らせる大金持ちの二男30歳御曹司。一方友人の平岡は懸命に働きながら自分に合った仕事を探している。その妻三千代は病弱で夫を頼るしか生きる術が無い。 働かなくても親の援助で暮らせる代助は、何を考えるに付けても切実さも悪心もありません。当時の大学を出ていますから頭脳は明晰で、いわゆるお坊ちゃんです。30歳になった息子に対して名士実業家の父親は、自分の仕事絡みも考慮してこれという嫁を何人も勧めます (当時の結婚は男子30歳女子25歳までは父母の同意が必要)。代助はのらりくらりと避けてきました。しかしその行動の背景には、自分でもそれと明瞭に気づかない三千代に対する深い思いがありました。平岡と三千代の間を取り持ったのは代助でした。格別な 「苦」 というものを知らずにこの年まで生きてきていますから、ある意味では何気なく平岡と三千代が夫婦になるように助言したのです。しかし、親が縁談を切り出す度に、次第に自分の気持ちが三千代にあることに気づきました。 〈十四の一〉 冒頭に代助の迷いが表現されています。
筆名を漱石・俳号を愚陀仏とした人ですから代助という名は金之助 (漱石の本名) の身代わりにもじったのでしょうね。恐らく漱石自身をも重ねながら、真面目に筆を進めて最後には落語の落ちのように笑いを引き起こしています。 文筆業というものがさほど社会に認められた職業では無かった時代に、現在も夏目坂という地名が残る家柄の出身。英国留学をし大学教授に成り、それを捨てて作家に。気持ちの上では代助に重なるような時も有ったかも知れませんね。一般庶民平民が読んでおもしろいと感じてもらえる顛末を書いたと想像します。 ノーベル文学賞は1901年が最初ですが、今の時代ほど海外で翻訳版が出る時代では無かったので、検討対象にも成らなかったと思いますが、世が世であればノーベル文学賞受賞は間違いなかったと、一老人読者は想像します。 |
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