《私の本棚 第326》 令和5年6月22日 号
「 文 鳥 」 夏目漱石 作
「坑夫」 と並行して発表された作品です。何と言うことも無い作品として読むこともできますが、坑夫に綴られる心の暗闇といったものが読み取れます。 弟子の三重吉 (鈴木三重吉) は文鳥を主人公にした作品を発表していました。その作品では文鳥に対する接し方を人間の恋愛に重ねて表現しました。漱石にも同じ文鳥を飼うことを勧めます。何故その鳥を勧めるかという事は一切口にしません。ではそうしようということで五円 (大まかに現代の価値に換算して拾万円位?) を渡します。三重吉は 「坑夫」 のポン引きのように上等の絹織物財布に入れて懐に仕舞い込みました。 元より文鳥に格別な思いを寄せる事は無く、文鳥の世話をしたり忘れたり、しようと思ったり思わなかったりと飼っていることも忘れがちです。文鳥の世話をしようとして籠に手を入れたときの文鳥の様子は、読者の私が子供の頃十姉妹を飼っていた経験から、文鳥に愛情を抱いていなかったことが感じられます。そんな中ふと昔知っていた女の事を思い出します。 引用します。 …… 昔美しい女を知って居た。此の女が机に凭れて何か考えてゐる所を、後ろから、そっと行って、紫の帯上げの房になった先を、長く垂らして、頸筋の細いあたりを、上から撫で廻したら、女はものう気に後ろを向いた。其の時女の眉は心持八の字に寄って居た。夫れで眼尻と口元には笑いが萌して居た。同時に恰好の好い頸を肩まですくめて居た。文鳥が自分を見たとき、自分は不図此の女の事を思い出した。この女は今嫁にいった。自分が紫の帯上げでいたづらをしたのは縁談の極まった二三日後である。 …… 昔知っていた女と文鳥を重ね合わせて眺めます。しかし今は、その昔の女の顔も思い出せない。連載小説は次第に忙しくなると綴ります。 この挿入は事実を基にした話で、何となく心を寄せていた女性をそれとなく表現しているように思います。しかも生死は不明。敢えて不明と自分に言い聞かせたいのか単に忘れて仕舞いたいのか。このあたりも坑夫の自分が出奔したという設定と重なるように感じるのです。職業作家としての生みの苦しみ、どのような事をどのように表現すれば良いのかという文学者としての苦しみと、どういったことを文字に表せば読者が喜んで呉れるのかという問題。胃病持ちでもあった漱石には大変だったと思います。そして飼うから買ってくれ給えと言った文鳥に対して優しい思いやりを掛けられなかった自分を責める代わりに、次の様な葉書を三重吉にしたためます。 …… 「家人が餌を遣らないものだから、文鳥はとうとう死んで仕舞った。たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌を遣る義務さへ尽くさないのは残酷の至りだ」 …… この最後の辺りは作り話なのか真実なのかという境目を想像することは難しいですが、 「坑夫」 と 「文鳥」 を併せ読んで、更に 「夢十夜の第一夜」 を読めば、何となく作者の思いが想像できるのではないかと言うような気もします。 話しは突飛な方向へ逸れますが、 これを書いていて野鳥の鳴き声を思い出しました。 私の家は街中でも無ければ田園地帯でもありません。野鳥にしてみれば夜明けに 「さあ 今日も頑張るぞ!」 という早朝(4時から5時頃)に鳴き始めます。近くには電鉄の電源ケーブルを支える鉄柱、電気や電話の電柱、こぢんまりした街路樹が自宅を取り巻いています。鉄柱の天辺にはカラスが子育て中、近くの電柱には雀のおやど、横の街路樹には声だけで姿を見たことの無い小鳥が来ます。カラスもそうですが街路樹の小鳥の鳴き声が随分印象に残っています。5月末から6月初め頃に二度聞きました。その鳴きか方がとても印象深いものでした。 1回目は抑揚を付けて10秒ほど(私は半分寝ているので確かとは言えません)泣き続けます。 2回目も同じ様に泣き続けます。何処かに仲間が居ないものかと呼びかけているように感じます。 3回目も抑揚を付けて泣きますが、やや短くなります。リズムは同じなのか違うのか良くわかりません。 4回目も3回目と同じ様に鳴きます。聞こえたら返事をしろよ とでも言っているのでしょうか。 5回目は更に短くなりますが、単語では無く短文と感じます。 6回目は5回目と同じ呼びかけです。次第に短くなるというのは聞いている私の方が心配です。 6回の鳴き方は全て息継ぎが感じられません。ぼんやりと聞きながらでも、凄いなあ?どんな風に息継ぎをしているのかな?と不思議でした。次はどんな鳴き方をするのかと耳を傾けていましたがそれきりでした。カラスは何かしらの会話をしている事を感じて居ましたが、姿の見えないこの小鳥も朝起きだしてから真っ先に仲間に呼びかけていたと思います。その後 何処かで合流ができたのか声を聞くことは無くなりました。6回3様の鳴き声は二度耳にしました。早朝ウトウトとしている時に元気で奇麗な鳴き声を聞くのは嫌なものではありませんでした。姿は見えなくて それでいて美しい声で歌い続けて呉れるのは気持ちの良いものです。 でも 見方を変えれば 会話の内容が判らないからこそ可愛いなあと思えるのでしょうね。人間世界も同様ということに成りますかね?。 |
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