《私の本棚 第337》 令和6年6月21日 号 「門」 夏目 漱石 著 |
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途中まで読み進めてから、題名の「門」は漱石がつけたものでは無い!? ことを知りました。題名はそれなりに大切な筈で、全体をどのように展開するかとか最後をどう閉めるか等に重要だと思います。
(どこで題名が展開するかと頁を繰っていたのになあ! ) その経緯は新聞社の次作催促に合わせるため、木曜会のメンバーである森田草平と小宮豊隆に任せました。彼らは執筆者ではないので適当に新聞社へ次作題名を報告。それが 『門』 で、漱石自身も題名らしく筆が進まないと寺田寅彦宛書簡で言っていたとのこと。 さて、読み終えた頁を思い起こしたり、自分ならどんな題名にするか何て馬鹿らしい事をも考えていました。恐らく漱石の研究者達は、私からすればとんでもなく難しく骨の折れる読み方をされ、膨大な参考資料を探し出して全体を解釈し結論づけられていると思います。 でも私は読書感想文を書こうとしているだけですから、これをお読み戴く方々に苦労をかける事は無いと思いますが、流石に漱石の書いた作品ですから、私の感想もどうしても素直に書けていない箇所もでてくるかと思います。 全体としては主人公の宗助と友人の安井・その妹の御米 と宗助の弟小六 が中心です。宗助と安井は京大二年生で訳あり中退。 訳ありとは、あるとき宗助は友人安井の家に遊びに行きました。たびたび訪問するうちに宗助は御米と仲良くなります。実は御米は安井の妹では無く同棲をしていたようです。この事自体、この時代、安井は親から縁切りをされますよね。宗助はそれを知らずか或いは時既に遅しか深い仲になります。宗助と御米は広島へ転居、安井も何処かへ去りました。宗助は長男でその実家は財産家でしたが、この浮ついた生活のため相続権は無くなり金銭的援助も途絶えます。きちっと手順を踏めばそのような事にはならなかった筈ですが、30歳までは父母の同意が無ければ結婚できません。その上、他人の愛人を奪ったとなれば弁解の余地は無しです。 宗助はどうにか身分の低い公務員として、6年間同棲状態の二人の生活を支えてきました。しかし人生は中々安心に満たされるとはいきません。行方の知れなかった安井と思わぬ所で顔を会わす可能性が出てきました。どうすれば避けられるかと思案の末、同僚から紹介状をもらって禅道場の門をくぐり一週間雲隠れをします。 (鎌倉の円覚寺山門をイメージ・やっと題名らしく展開しました) 自宅へ戻ってからそれとなく安井の行動を探ると、彼は再びモンゴルへ戻ったと聞きました。宗助と御米のこれといって楽しみの無い、しかし穏やかな日々は戻ります。格別な面白さはありませんが、この様な夫婦人生も在る事は、私の子供時代の聞き知った記憶に残っています。 「それから」 と同じ様に嫁の御米はどこかしら開き直りのような芯の強さがあります。それに比べて宗助は気持ちの休まる日がありません。財産家の長男でありながらその家督を一切継ぐこと無く、恐らく婚姻届も出せずある意味では安月給で日々働き続け、折角の休みには寝て半日を費やしてしまっています。この小説の面白さは二人の対照的な立場の相違や精神力 (心の持ちよう) にあるのでしょうね。 主人公の名 『宗助』 は 『宋人』 (そうじん=愚か者のたとえ) なら尚良いか!と思ったのですが、文字の検索誤りでボツ。ならば 『宗子』 (本家を継ぐ子) からもじったと解釈するのが良いと勝手な判断。 題名は 当然考えがあって付けるのが普通ですから、『悟』 ではダメかな、悟って仕舞ったらこの様な展開の小説は終わる。ならば、『又々それから』 では安直過ぎるし。『苦』 でもいいけれど、『気づけば』 なんて今風だし。結局漱石の筆力で、弟子達が適当に付けた 『門』 に上手く重ねました。 〈十四の十〉の 中程から、宗助と御米がどうしてこう為ったか。頭脳明晰な宗助でも解せない夢のうちに過ちを犯し、宗助を取り巻く全て、親・親類・友達・一般社会を棄てた。もしくは夫れ等から棄てられた。学校からは無論棄てられたが表向きは退学したことになり形式の上だけに人間らしい跡を留めた。とあります。 【7/13 追記】 最初に読んだときは「棄てた。もしくは夫れ等から棄てられた」の真意はわかりませんでした。しかしこれは漱石の強い精神力の表れであろうと察します。つまり 『このような事態になったからには誰からも相手にされないだろう。ならば接点があった人達との繋がりは今後はもう無いだろう』 と心を決めた (棄てた) 。しかし自分がそう考えるよりも前に、夫れ等は私を棄てるに決まっている事だという状況を、能動的表現と受動的表現をもって簡潔に精神の強さが滲んでいると読みました。 〈三の三〉 の 中に、この作品を離れても、どうしても気に掛かる二人の子供に関する会話があります。
元々神経症と胃潰瘍で苦しんでいた漱石ですから、この発表済作品の一文を思い起こしてどう感じ、自分の精神を如何に整理して居たのか想像することさえ出来ません。いつかこの時の精神状態を知る事ができるような資料を目にした時は、追記するか何かの形で書きたいと思います。 【令和6年9月2日】 追記 夏目鏡子 - Wikipedia 或る事が気に掛かり金之助 〔漱石〕 の妻 〔鏡子〕 を調べていて、上記会話が腑に落ちました。 漱石は1895年4月に松山中学へ赴任しました。同じ年の12月に鏡子と見合いをし婚約成立。 その鏡子と結婚をしたのは1896年6月でした。この時漱石は熊本五高教授で転任していました。いずれにしても、新しい生活はお嬢様育ちの鏡子には大変なストレスだったようです。しかし一方、漱石にとっても 「お前のやっていることは、不経済極まりない」 と叱ってもいたようです。そうすると逆に 「眠いのを我慢していやいや家事をするよりも、多めに睡眠をとって、良い心持ちで家事をする方が、何倍も経済的なのではありませんか?」 と言い返して (恐らく鏡子はお手伝いさんの居る家庭で育って家事の経験が無かった)、漱石を閉口させることもしばしばだったようです。そのような時、馴れない環境もあって1898年に第一子を流産しています。いろんな事が重なって、近くの川に身投げをしましたが偶々其処に居た漁師に助けられたようです。 従って三の三に出てくる会話は流産した第一子と推測します。 そう言えば そんな映画を見たようなボンヤリとした記憶もあります。 なかなか 雑談では無く会話としての話しが噛み合いにくい夫婦だったことも分かりますが、上記ウィキペディア (多くの真っ当な知識人達が記述) に依ると、仲の悪い夫婦ではなく、育った環境 (鏡子は名家・金持ちのお嬢様で金之助も名家だが、幼いときに里子に出されており里親との嫌な関係) や教育を受けたレベル (鏡子は尋常小学校卒、金之助は東京帝国大学卆・英国留学をした学者) の余りにも色々な面で大きな違いから、スムーズな意思疎通が難しかったのでしょう。夫婦がお互いに言葉足らずです。 鏡子は 「これを言えば充分でしょう (女性の表現) 」、金之助は 「これ以上言わないけれど、その根底に在る事は分かるだろう (男性の思い) 」 と。 漱石と妻の家族とはそれなりに仲良く付き合いがあったことも書かれていました。 これを追記している時、偶然に河合隼雄先生の書かれた 「こころの処方箋」 を読んでいました。新潮社が毎年子ども達の夏休みに合わせて発行する無料の書籍案内冊子を見て購入したものです。並んで案内されていた谷川俊太郎さんは 「ぼく」 で知っていました。しかし河合先生のお名前は記憶に有るものの何故だかわかりません。で、取りあえず二冊購入しました。重ねて不思議な事に、そのような処方箋が自分にも必要と感じる事が起こり、読んでいると参考になることが沢山書かれています。 前置きが長くなってしまいましたが、その中に 「男女は協力し合えても理解し会うことは難しい」 という一文に出会いました。内容は、管理職のご主人が順番制とは言え余りにもくだらない仕事をしていてどんなに嫌かということを奥さんに話します。聞いていた奥さんは初めはあっけにとられていましたが、次に笑い出して 「日本の企業はお金持ちね、そんなツマラヌ仕事をさせといて高い給料を払うんだからね」 と言います。娘もそれを聞いて笑いながら 「男なんて偉そうに言っていて、会社ではそんな楽なことで時間をつぶしているのね」 と言ったそうです。 先生は、 「この様な事は中年以降になるとよく起こる、これまでの 『協力関係』 を 『理解』 と取り違えていると混乱する。男女が理解し合うことは実に大変なことである」 と結ばれていました。 恐らく 金之助と鏡子も同じような状況であったと想像します。ネットで 「夏目鏡子」 を検索すると 「悪妻・浪費家」 といった本のコマーシャルが出てきます。それは或る一面を捕らえて、都合良く面白く書いたのが売れれば良いという類いのモノです。従って私は、リンクの設定は極力ウィキペディアにしています。金之助と鏡子が生まれ育った境遇をベースにし、登場者の心を汲み取りながら書籍を読み進めれば、もっと違った本当の姿が見えてきますし、自分自身にも何処かで何かの参考に為ることが出てくると思います。 参考資料・・・結婚と子供 1895年 4月・・・金之助 松山中学へ教師として赴任 1895年12月・・・金之助と鏡子の婚約成立 1896年 6月・・・金之助と鏡子 結婚 1898年某 月・・・第一子流産 1899年 5月31日・・・長女筆子誕生 1901年 1月26日・・・二女恒子誕生 1903年11月3日・・・三女栄子誕生 1905年12月14日・・・四女愛子誕生 1907年 6月5日・・・長男純一誕生 1908年12月17日・・・二男伸六誕生 1910年 3月2日・・・五女雛子誕生 1911年11月29日・・・五女雛子 原因不明突然死 |
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永平寺 山門 |
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