2018年4月28日(土)〜5月6日(日) 
     四国 39番延光寺から67番大興寺まで・・・こども達と一緒に巡ったみち
                                        69歳(もうすぐ70歳)

第9日目(5/6)  いよいよ帰途へ   そして   感じたご縁と私の遍路

ホテルレストランからの眺め





 
 ゆったりと朝食を済ませてから帰途につく予定。広場の時計は8:15を指しています。ホテル11階のレストランは9:00まで。奥の瀬戸大橋やJR 予讃線の宇多津駅を見渡すことができます。随分以前 早い話 昔、与島の橋脚に上がらせてもらった事があります。
 窓辺に席を取り、ゆっくりと食事の後、飲み物を何杯もお替わりをし、ぼんやりと景色に目をやりながら座っていました。チェックアウトは11時、列車は 10:20 ですから気が急ぐことは何もありません。

輪行した旅は必ず切符の写真を残してあります。走行中に行きあたった鉄道の駅も同じです。日時とその場の雰囲気が強く印象に残ることがありますし、いい記念になります。
 
輪行帰途のJR切符



 
 ホームで列車待ちをしているとアンパンマン列車が入ってきました。間近で撮影のチャンスとばかりカメラを構えていましたが、自分が乗る列車と分かり大慌てです。やれやれ........。 
JRアンパンマン列車




 
 乗り込むと、GWということも重なって親子連れも目につきます。岡山へはあっという間の旅でした。岡山駅には何本かのアンパンマン列車が停車していました。小さい子は嬉しいでしょう。新幹線ホームで列車待ちをしていると、遅れが出ていることがアナウンスされ始めました。到着予定時刻と列車番号が表示されますが、消えたり変わったりと駅員さん達も大変な様子が伝わってきます。私の乗る予定の列車はひかりですので後続の「のぞみ」が先に入ってきたりして、乗車口のどの辺りで待てば良いのか (先頭で待っていて良いのかどうか) はっきりしません。私が最後列の席を取ってあるのは、輪行袋を置きたいからです。それに乗車時に他のお客さんになるべく迷惑を掛けないようにするためには先に乗車して荷物を置いてしまいたいのです。で、どの辺りに自分の立ち位置を決めようかとモゾモゾしていると、同じように列車待ちをしていた幼子を連れたご夫婦が 「どうぞ」 と自分達の前を譲ってくださいました。ありがとうございます。お陰様であまり迷惑にもならず乗車できました。 

           感じたご縁の数々


在来線以上に子供が沢山乗っています。通路を挟んだ左席及び前席とその左席・更にはホームでお世話になったご夫婦が三列ほど前の左と大勢です。列車が走り始めてどのくらい経ったでしょうか、何があるのか子供達がチラチラと私の席の方を見る事に気づきました。皆小さい子供達です。小学生らしき子供は何かしら自分のことに熱中しています。席に立って後ろの私をのぞいたり横からのぞいたりと落ち着かない様子です。私は珍しがられるような服装ではなく、輪行用に準備した普通の服装です。しばらく間をおいてから、ハッ!と気づきました。こども達だ!!。この列車は東京行だし、あのこども達がこの列車に乗っているに違いない。横峰寺のバスプールで感じた大川小学校と似た風景。犬が吠えていたこと。その時私が、子供達が上手く非難できてはしゃいでいると感じたこと。そして、この列車で本当に小さい、つまり幼子達が私の席をしきりに気にする様子。これはもう誰が何と言おうが、74人の子供達の内何人かが遠足をしているに違いない。私は口にこそ出しはしなかったものの、「そうか......、良かったね.......。楽しかったか?気を付けて帰るんだよ」 と言わずにはおれませんでした。
列車が京都駅に到着する直前に、私は岡山駅ホームでお世話になった親子三人連れの席に近づき、「突然話しかけることをお許しください。私は今回自転車でお遍路をしてきました。途中で出会った中で何となくご縁を感じた方々にこれをお渡ししてきました。今は読まないでください。お帰りになってから読んであげてください。これは携えて歩いた最後の一枚です。このようにして人様にお渡しすることは自分の人生ではこれが最後です。今後このようにしてお渡しすることはありません。お願いします。」 と言いつつ二つ折りのこどもの日を渡しながら、つい、ずーっと私の顔を見つめ続けてくれている幼い娘さんの頭を撫でて 「元気に大きくなって幸せになるんやよ」 と言いました。お若いご両親は 「ありがとうございます」 と仰っていましたが、私は胸が詰まりそれ以上言葉を続けることもできずお別れしました。どうかあのお子様が元気に成長され、ご両親やその他関わりのある周囲の人達を幸せにするような、立派な大人に成長されることを心からお祈りします。
 
           私の遍路の心- - - - 今思うこと
 最初に遍路を思い立って出立したのは 2016.11.02夜 車で自宅をでて道の駅 「第九の里」 で車中泊をし、早朝7時頃から1番霊山寺を初めとして、4泊5日の旅をしたのが始まりです。サイトの記事にはしていませんが、1番霊山寺から29番国分寺、その後四国を縦断して68番神恵院から88番大窪寺を巡りました。次いで 2017年のGWに自転車で3日、正確には2日と半日で30番善楽寺〜38番金剛福寺を巡りました。この時には、リタイヤという残念な結果になり続きを自転車で巡るのは無理だろう、かといって車も離合の難しい道が多い・・・。そういう挫折感に襲われていました。途中で諦めてしまうのは場合によっては決して悪いことでは無いと思いつつも、2016年晩秋に遍路を始めた心に思いを至せば、そして大きな重みを持つ 2016.05.05 こどもの日 の記憶を蘇らせるほどに、何とか続きを遍路して結願したい。同時に自転車での挫折感を払拭して古稀の記念であり自転車での走り方についての一区切りにしたい。そういう思いで居たものがこの日を迎えることができました。「お遍路を何度した」 という言葉を目や耳にすることが多々あります。今の私はこどもの日を結願した思いでいっぱいで、お遍路という仏の道を歩く事は今後無いと感じています。なぜなら、この旅で自身や家族の身上に関して祈った事は一切無く、肩の荷が下りたという安堵感で充たされましたから。

 今回の 「こども達と一緒に巡ったみち」 を多少奇異に感じられる方もおられると思います。横峰寺で犬が吠えたこと や 帰宅時の新幹線列車に乗り合わせた幼子達の行動について、私がなぜそのように感じたのかを少しお話させて下さい。
 先ず初めに、私は決して霊能者などではありません。極、普通の老人です。私が初めて 「何か」 を感じたのは母親が亡くなった時です。数ヶ月ほど経っていたでしょうか、突然、夢に母親が出てきて短い言葉を交わしました。その時の驚きは尋常では無く、それまで亡くなった人と言葉を交わすなどは言うまでも無く、夢を見る事さへありませんでした。それ以来、不思議を感じる事が増えてきました。自分の記憶を順序立てることが難しくなっていますが、お聞き下さい。
 

先ず 犬にまつわる事


子供が小さい頃、犬を飼いたいとしきりに言っていましたので、それを聞いた家内の母親が余所から犬をもらってくれました。義母は近くではなく、特急列車で4時間余りかかる遠方ですから、どうにかドッグフードをふやかせば食べられるくらいの時に、小さな篭に入れられてやってきました。雑種で少し毛が長めで愛らしいオス、比較的気の弱い犬でした。そのお祖母さんが一年余り経ってから遊びに来たのですが、ある日突然道路の彼方の方角を向いて喜び鳴きます。犬は繋いでありますから、方角とは言いましたがT字路ですから見える訳ではありません。私は何を喜んでいるのかと覗いてみると。お祖母さんが向こうの角を曲がって姿が見え始めたタイミングでした。なんと一年以上経つのに覚えていて、100メートル近く離れていて姿も見えない時に、気配とでも言うべき何かで察知したのでした。
 この犬は本当に記憶が素晴らしくて、ご近所様が表を歩いているだけなら吠えませんが、玄関先で声掛けをして下さると喜ぶのではなく吠えます。しかし、一度でも玄関内に入った方には二度と吠えることはありませんでした。そういう意味で非常に記憶力の良い犬でした。その犬に私が猛烈に吠え立てられたことがあります。
 私の母親が亡くなる二年余前の昭和59年、私が子供の頃から気がかりにしていた姉が四ヶ月余りの闘病の末亡くなりました。亡くなる一週間ほど前に、私が引っ越して以来まだ訪れていなかった私の家に遊びに行きたいとベッドの中で言います。今度の正月にでも来てすき焼きでも食べたらええがな と 気休めに言いましたが、その三週間ほどさへ持たないであろうことは分かっていました。ある日の朝、職場へ危篤という連絡が入りました。私は死に目には会えないだろう事は感じていましたが病院へ行き、返事のない姉の手を取り撫で擦りました。
 取り敢えず病室の荷物を私の車に積んで、後は任せて一旦自宅に戻る事にしました。私が自宅に到着し車を止めて降りたその瞬間、あの記憶力の良い犬に吠え立てられたのです。それも尋常な吠え方ではなく、尻尾を下げて目をまん丸にむいて、まるで何かに怯えているようです。さすがに私は、えっ?まさか!?という思いがよぎり、左肩を振り向いて見ましたが当然何も見えません。犬は吠え続けています。次に右肩を振り向いて見ましたが、やはり何かが見えるはずもありません。と その瞬間、ポチは吠え止んでいつもの顔に戻り尻尾を無茶振りして喜びました。このとき私は行きたいと言っていた姉が一緒についてきたのだと確信しました。
  人には見えなくても、犬には見えるものがある。 それは今もって変わる事のない確信です。
 

おさなごには見えるものがあるということ


これも犬にまつわる話しになりますが、孫娘が二歳頃のことです。この時にはポチは寿命を全うして居ませんでしたが、もう一度犬を飼いたいという子供の希望でシーズーを飼っておりました。時既にもうお歳でした。孫娘が生まれて這い這いもできない頃、その子の側で番をしているかのような仕草もありました。
 孫娘が少し歩けるようになった頃、割愛しますが、撫でながら もうこれ以上頑張らんでもええと言う私にお礼を言うかのような行動の後天寿を全うしました。屋内で人間と一緒に飼っていた犬なので動物霊園で焼いてもらったのですが、その今まさに焼かれている時、孫娘が反対の原っぱに向かって 「マックちゃん」 と一言呼びかけました。私は 「マックちゃんが遊んでいたんか?」 と尋ねましたが、何か不思議そうな様子で黙っていました。きっと現世の苦しみから解き放たれて喜び勇んで野原を駆けていたのだと思います。
  このときも私は、幼子には何かしら見えるものがある という事に気づきました。この孫娘にその時の記憶はありません。
 

線香の香りが訴えるもの


 平成7年1月17日 思い出すのも辛いという人が沢山おられる阪神淡路大震災がありました。幸い私の家は揺れも比較的小さくどうにか無事でした。私の叔母夫婦は大阪近郊に住んでいて格別な被害はありませんでした。しかしその何日か後電話があり、揺れが恐ろしかったこと、今でも恐怖心があるので、私の家に泊まりに行きたい位だと言います。叔母夫婦には子供がいないためそんな言葉や電話に繋がったのだと思います。どのような会話をしたのか覚えていませんが、一つだけ覚えていることがあります。それは 「そんなに怖かったら泊まりに来たらええがな」 という言葉を何故かしら口にしなかったという事実です。それも不思議の一つです。
 同じ年の翌2月3日、身支度をしながらTVニュースを点けていました。アナウンサーが 「大阪府●●市××で住宅火災があり、住人の○○さん(叔母)が亡くなられました・・・・」 という声が耳に入りました。 夫婦で大騒ぎをして向いました。
 落ち着いてからにわかに蘇ってきた記憶があります。線香の香りです。叔母から電話があった後、普段どおりの生活をしていましたが、私が布団で寝入っていると、階下から漂う焦臭いでもなく妙なにおいで目が覚めました。家には仏壇はありませんし、当然お線香を焚くこともありません。若し何かが焦げているなら拙いので下りて確かめますが何もありません。家内は どうしたのか?と聞きますが、私が説明しても自分には臭わないといいます。そんなことが17日〜翌月3日迄の間に二度ありました。そこへTVニュースです。
 私は、あれが知らせだったなら何故泊まりにおいでと言ってあげられなかったのかという思いがずっと残っています。何故なのか今も分かりません。もしそれが 「縁」 というなら余りにも辛く切ないものだと思うばかりです。その香りが未来の事故を知らせるものと分かっていれば、そんな結果を招く事もなかったかもしれないと思うばかりですが、線香の香りが何かを知らせるということがあり得るなどと毫も思ったことはありませんでした。ただ、叔母の件より数年後 に予めではなく、故人のお通夜前日に線香の香りを離れた自宅で嗅いだことはその後二度あります。一人は長年お世話になった人で、陽気に 「おうっ、先に行くわ」 そう挨拶に来てくださったと感じました。時間にして3秒間くらいでした。今一人はお通夜の夜に 「親戚の者を宜しく」 という意味合いに感じた人です。時間はコンマ何秒ほどでした。
 

ラップ音と呼ばれるもの


 平成23年3月11日に発生した東日本大震災。この年の8月7日には私達夫婦と娘・孫娘の四人で仙台市荒浜へ車で訪れました。どうしても、いわれのない天災による多くの人達の苦しみの一端を孫に見せておきたかったのです。
 平成25年4月には夫婦で、車で仙台から北上する慰霊の旅をしました。その第1日目の夜、パキン・パキンという規則正しい音で先ず私が目覚めました。音はしつらえたテーブルの方から聞こえてきます。その場所にはそんな音のするものはありません。私はビールも飲みませんから空き缶もありません。しばらく聞いていて、それはラップ音と呼ばれる現象だとおもいました。初めての経験です。目を開けてその方向を見てはいけないような気がして、目を閉じたまま聞いておりました。そのうち家内も目が覚めて 「お父さん、何の音?」 と言います。自分の本当の思いを言うと恐がりそうな気がして、「なんやろなあ?電気を点けてみて見ようか?」 と言いながら枕元のライトを点けたその瞬間、あれほど鳴り続いていた音はピタリと止みました。
 その日は午後に到着して、ローソクとお線香を携えて閖上地区の基礎ばかりになった場所へ行きお参りをしました。元の風景を知らない私でも基礎だけが広がる光景やそこ此処のお供え物をみれば察しが付きます。きっと縁もゆかりも無かった私たちにお礼を言いに来られたのだと、今もそう思っています。   家内には帰宅後日が経ってから、あの時の音はラップ音だろうと話しました。
 

背中に乗られたこと


 
私がまだ50代のころ、単独24時間耐久ス-パーロングサイクリングをしていた時の事です。記事として書いたと思っていましたが、今探すと見当たりません。当時深夜の国道9号線島根県の何処かを下関に向かって走っていました。路面が平坦か登り坂かは景色が見えなくても、自分の足の感覚で分かります。ほぼ平坦な道を走っていたとき突然背中 (首の付け根から少し下辺り) にズシッと重さを感じました。何かこんな話しをTV番組で聞いたことがあるぞ?。ひょっとして過去にこの辺りで事故死した人がいたのかも知れないな...。とっさにお経のお題目を口の中で唱えました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、日本人だからアーメンはよかろう…。 と、背中はすっと軽くなりました。ああーよかった。そう思いながら暫く走っていると、又背中が重くなります。振り返ってもなにも見えないだろうとは思いますが少しは怖い。それで、私は話しかけることにしました。 「俺は今、年に一度の自転車旅行をしている。そのために一年間練習をし、それ以外の準備もしてきている。この辺りで何があったか知らないけれど、頼むから邪魔をしないでくれるか?南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」。
   それっきり背中は軽くなりました。今までに只一度の経験です。
(正確にはもう一度あります。これはここに詳しくは書けませんが、30分〜40分程の経験でした)
 

夢まくら


 母親と夢の中で一言の言葉を交わしたことはすでに話しました。その時の私の心臓は、坂道を登る程度の話しではなく破裂するのではないかと思うほどの動きでした。その後は母親の夢を再び見ることはありません。でも、数えきれないほど多くの故人達の夢を見るようになりました。数え切れないと言うよりも、慣れすぎて会話を楽しく思い出せることもありますし、それ以上に誰と話したのかさえ思い出せないことも多々あります。
 その中で忘れられない夢が一つだけあります。
ある日夜中に夢を見ました。私はとある道を自転車で走っておりました。その道からそれて道の無い草むらの斜面を下りています。何故こんな場所を下りるのか自分でも不思議でした。ふと下を見ると人家の辺りに見覚えのある老女がこちらを見上げて立っています。こんにちは と声を掛けても身動き一つせず、無言でじっと私を見つめています。 そのまま再び寝入りました。どのくらい時間が経ったのかどうか分かりませんが、又まったく同じ夢を見ます。 朝、目が覚めると 何かしら胸の辺りが苦しい。息苦しいのではなく、もやもやと心が重苦しいのです。そのままその日の仕事をかたづけようとしますが、重苦しくて耐えがたいのです。その老女は生きている人か?亡くなった人か?葬儀にお参りした記憶をたぐります。亡くなっていました。仕事が手に着かず、老女の息子さんが勤めている所へ出かける事にしました。11時過ぎだっと思います。その彼に夢の話しをすると、何か重大な決意をしていて午後に公表する予定だったらしいのです。彼は 「あなたは一体何者なんですか?」 と問いかけましたが、私は、「・・・わたしです」 としか返答のしようもなく、 「とにかくあなたのお母さんが無言で私を見つめていた夢の話しはした。何が伝えたかったのかは分からないし、私も何故私の夢に出てきたのか、何がどうなのかは分からないが、話しをしたらもやもやが消えてすっきりした。夢の事は伝えたよ」 と言って分かれました。どうやら事のなり行きからすると、亡きお母様が、一言も発しないまま私を通じて息子に伝えたい事があったようです。
 

          私が遍路を終えて 今感じていること

 私は結願を迎えて 善行を行なったなどとは一切感じていません。2016.05.05 こどもの日 不覚にも何ら一切の準備無く大川小学校の被災跡地に立ち、子供達の楽しい日々の名残を見つめたとき、その様子を見るように聞くようにして心に訴えかけられたことを詩に表しました。当時も今も、記した詩 「こどもの日」 は74人の子供達に書かされたと思っています。亡くなった事に対して、なぜ?…何故?…ナゼ?…という思いしか出てきません。こうして書いていても目頭が熱くなってきます。なぜ?…何故?…ナゼ?…。でも私があの詩の中で唯一子供達に訴えかけた言葉は 「でもだれもせめないでねおねがいだから」 という言葉だけです。ご遺族の方々の思いや行動はどんな形にしろ間違いは微塵もありません。子供達に訴えたかったのは、もの凄く悔しいのは痛いほど分かる、しかし、君たちを天国に行かせたいなんて思った人は、誰一人いなかった。でも...でも、君たちはもう戻って来ることはできないところへ行ってしまった。だから、恨みや憎しみだけを持ったままで天国で過ごさないで欲しいという私の切実な思いです。

 2016.05.05 の夜、私は 道の駅 「つちゆ」 で仮眠しました。その時、子供の夢を見ました。大きな男の子が小さな男の子を口で叱っています。学年が同じかどうかは分かりません。私がいたたまれなくなって、「もうそんなにいじめなくていいやろ」 と言うと夢は消えました。また暫くしてから全く同じ夢を見ました。先ほどと同じように 「もうそんなにいじめなくていいやろ」 と言うと消えました。高速ICに入る爲、未明に出発し、時々仮眠をしながら、その夜はJR富山駅前のホテルに宿泊したのですが、また同じ夢を見ます。昨夜と同じように 「もうそんなにいじめなくていいやろ」 と言いながら辛くなってきた私は、「もうお帰り、二日間一緒に旅したからもうええやろ、もうお帰り」 と言うと消えました。それ以来その夢を見ることはありません。なぜいじめている (叱っている) 場面だったのかは分かりませんが、何人かの子供達が誘いに応じて一緒に旅してくれたのだと思っています。

 大川小学校の風景に重なるような横峰寺ふもとのバス駐車場とその脇の山の斜面、犬がしきりに吠えていたこと。きっと子供達は思いを新たにして、山の斜面でわいわいと賑やかに遊んでいたのだと思います。日付が5月5日に変わったばかりの深夜に、ビジネスホテルマイルドで繰り返し見たその場所での出来事の夢。紛れもなく子供達だと信じています。そして5月6日帰途についた岡山駅からの新幹線車内での体験。子供達は心のわだかまりから解き放たれて、鳥が羽ばたくように東北へ向かって飛んでいったと思っています。 誰がなんと言おうと、そう思います。

 私もこの先、人生が30年も40年もあるはずはありません。その時には こどもの日 に書いたように 「おーいみんな元気だったかい」 って再会できるような気がします。顔は全く知らない子供達ですが、懐かしい顔に出会ったような思いで取り囲んでくれそうな気がするのです。

        絶対にそうであって欲しいと祈ります。

 
般若心経

 般若心経 262 文字を意味も分からず拙いながら、札所の数だけ唱えてきました。旅を終えた今、解説した本をもう一度読み返していますが、仏教哲学ですから到底分かるとは言い難い内容です。それでも懸命に読んでいると、所々に何かしらを感じることはできます。
「無」 という文字が262文字の中 21回も出てくると書かれています。それだけに無や空という概念を会得することは至難の事なのだと思います。私は何年も前から心に留めている部分があります。

度一切苦厄 という経文です。
 
  一切苦厄とは、一切の苦しみと厄 (わざわい) の元となるのは、こだわりである と。

こだわりとは
四苦八苦という避けることのできない苦しみでもある と

四苦とは生きる上で味わわなければならない苦しみで

@生まれる苦しみ(生苦)

A老いる苦しみ(老苦)

B病むことの苦しみ(病苦)

C死ぬことの苦しみ(死苦)

この
四苦に、更に四つの苦しみを加えたものが八苦であり

D愛する者との別れ(愛別離苦...あいべつりく)

E恨みや憎しみをもつ人との出会い(怨憎会苦...おんぞうえく)

F求めるものが得られない苦しみ(求不得苦...ぐふとっく)

G人間の身心から生じる苦しみ(五蘊盛苦...ごうんじょうく)

こだわりの根本は自分自身が抱える
五蘊にあるが、五蘊そのものは何のこだわりもない空っぽの世界であるとも。

では五蘊は何を表すかと言えば、

=私たちを取り巻く形ある世界

=それを感受する

=そのものが何であるかを見極める

=心がある方向にはたらく

=自分が今ある状態を知ろうとする


一言でいえば、
あらゆるこだわりを捨てなさい という事のようですが、簡単にはできないのが人の常だと思います。

 
          このサイトを訪れて下さった皆様方へ
 最後にお願いとして、このサイトを訪れて下さった方々はそれだけでも子供達に何かしらのご縁があった方だと思います。お読み戴くその事が、1時間近くの恐怖心・哀しみや絶望に襲われた末、理不尽に突然明日という日をなくした子供達に対しての慰めや思いやりとして天国に届くと思います。小さいお子様達には、命の大切さや友達への思いやりがどれほど大切な事なのかという小さな灯火が、やがて大きく心の中で成長し教科書では得られない大切なものを身につけて、人から慕われる立派な大人に成長されると信じます。
 私は今回、遍路のみちを歩いて、【
ご縁】 というのは何処るのか或いはいのか 自分では推し量れないものであると言うことを、この歳になって今更のように知るところとなりました。知り合いが知り合いにお友達がお友達にというふうに、今は亡き大川小学校の74名の子供達に (「こどもの日」) 思いを寄せて下されば、あの子達もきっと大喜びをして皆様方を見守ってくれる、そんな気がしています。本当にありがとうございました。

  旅を終えて改めて数多くのご縁を今更ながらに感じ、私も心が安まりつつあるとともに、皆様方に感謝しております。

 
      第1日目(4/28)  輪行〜39番延光寺〜40番観自在寺へ戻る

    第2日目(4/29)  41番龍光寺〜43番明石寺へ戻る

   第3日目(4/30)  44番大寶寺〜45番岩屋寺へ戻る

   第4日目(5/1)  46番浄瑠璃寺〜53番円明寺へ戻る

   第5日目(5/2)  54番延命寺〜59番国分寺へ戻る

   第6日目(5/3)  61番香園寺〜64番前神寺へ戻る

   第7日目(5/4)  60番横峰寺へ戻る

   第8日目(5/5)  65番三角寺〜67番大興寺 そして 金刀比羅宮へ戻る


  後日:2019.05.05 再び大川小学校の被災跡地を訪れました。島崎藤村の高樓を最後までお読み下さい。


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