| 《私の本棚 第363 》 2026 令和 8年6月4日号 (青少年達へ) 「 つたなさの方へ 」 (その1) 那須 耕介 著 |
| 〔初めに〕 著者は京大教授で法哲学を専門となさっていました。従って読み進めると大学の門をくぐった事の無い私は何となく、どういうお気持ちで書かれたのかどう解すれば良いのかと戸惑う所もありました。読みやすく気持ちの良い体裁に成っていますから、一読目は4時間程で、二読目は感じるところに線を引きながら心に湧き上がった事柄をメモ書き。三読目は、もう一度全体を思い返しながら読みました。 先ず 「つたなさの方へ」 という言葉遣いに、あれ??という困惑が。初めて耳目に触れた様に感じます。広辞苑の 『つたない』 と 『さ』 を何度か読み返しました。そうしながら考えていると、「自分に足りない力はアレかな?コレかな?と思っている貴方へ」 と解することができました。それと併せて 「法哲学」 とはどんな学問なのか調べると、それは第332号で触れた 「生きる権利・・・」 の内容に重なるものと分かり、視界が広がって少し気持ちが楽になります。 更にブックカバーが気に掛かります。遠い宇宙から見た地球?、しかしそんな絵が描かれているはずは無い。何度か心の中で問いかけていると書名と重なってきました。誰でも自分という人間はこれで良いのだろうか?、どうにかすることは出来ないのだろうか?と煩悶する事があります。そんな心の底を表しているのではと。そのような心は決して汚れてはいません、しかし明 瞭な輪郭に収まり切りません。正しく円やかな心でありながらも、自身の生い立ちなどから考えが及ぶこと及ばない事は沢山あります。気づかないままに数えることができない程の自問自答を繰り返しています。それを表現したのがブックカバー表裏の絵だと思いました。 更に表と裏の表紙に続く黑色の遊び紙は、著者の逝去に対する弔意と感じます。丁度一周忌に初版第一刷が発行されたことに対して、発行所・発行者・装幀作者・先生の奥様と櫻子さん達のみならず、亡き那須先生も安堵と共に不思議な幸せを感じておられるのではと思います。 多くの方々の著者に対する熱い思いを知り、読者の私は言葉を失いました。 ※ この読書感想サイトは、書籍 「つたなさの方へ」 と併せ読みをされると良いように思います。 (3回に分けて掲載いたします) |
| ①【家の中の余白】 夫が帰宅するといつも妻が様々な 「死んだ (殺された) ふり」 で出迎える家庭が有ったという本を読んだとき、その夫は妻の振る舞いを安易に (何をしてるの?とか馬鹿なことをして!とか) 思わずに、黙って見守った事が心に残っていると述べられています。 これに関しては、 河合隼雄 先生の 『こころの処方箋』 に在る 「男女は協力し合えても ― ― 」 ・ 「心のなかの勝負は ― ― 」 ・ 「自立は依存によって ― ― 」 ・ 「 『耐える』 だけが ― ― 」 なども読むと良いかと思います。 私は偶然のタイミングと言えますが、「家族でない者が家族になろうとするとき、 ― ― 」 の一文が心に深く刺さりました。京都府南丹市の小学五年生が(令和8年)2026年3月23日に行方不明になりました。最初にニュースを見たときから “ 義父が犯人” と感じていました。 義父の心は知りませんが、相手に子供が居る場合はお互い恋愛感情だけでは成立しない筈です。河合先生の仰ることとは違い、一層の困難を覚悟するのが大人の証しです。そんな心の余白を持っていない人が再婚することは不可能でしょう。しかも義父と子供の名はひらがなで書けば違いは [う] の一文字・・・子供の心はどのようなものであったか・・・。哲学という言葉は極めて難解とも感じます。しかしそれは、自分には拙 い心も在ると感じれば感じるほど、その事に関して自覚し考える事が大切と解釈すれば良いと思います。直接に見聞きしたことはありませんが、子供が何か不始末をしたとき親は、「お前の様な子供を欲しいと思った事は無い」 と言うかも知れません。しかし、子供だって 「生んで欲しいと頼んだ覚えはない」 と言う気持ちがあるかも知れません。年齢は違ってもお互いに一個の人格なのですから。色々な余白はどうすれば生み出せるのでしょうか。 それにしても余りにも意味不明な事件や事故が多い昨今です。 |
| ②【「能力」は本人のものか?】 「できる/できない」 は住む世界によって評価が変わる事を考えてみると良いと述べられています。初めて知りましたが、誰でもどんな人でも楽しめる 「ゆるスポーツ」 と称される運動があるそうです。例えば、地べたを這ってプレーするイモムシラグビー、1㍍を走る遅さを競う100センチメートル走など。全員が目隠しをすれば視覚障害の有無は消滅。そこから、人の能力は個体と環境の支え合いの産物だと。人が歩くには地面が必要だし、他人と意思疎通をするにはお互いの言語能力が必要。先生は自身を引き合いにして、「私が穏やかで親切な先生でいられるのは、きっとそれを上回る学生の辛抱強さのおかげだろう。」 と息抜きを込めて述べられています。そうかも知れません。優れた人のお蔭で自分が成長でき、そうでない人のお蔭で自分の心は解放されているのかも知れない。更に身近な例では青少年と老人の関係が浮かびます。もしも老人が青少年と同じほどの回転頭脳や身体能力をもっていたなら、青少年は身の置き所がない。つまり老人のお蔭で青少年の意気盛んな元気が明るさをもたらし、青少年のお蔭で老人の人生先 達としての意味が浮かびます。 かつて私自身の経験としてこんなことがありました。もう三十年ほど前の事です。障害者法定雇用率に基づいて一人の青年と関わりを持ちました。彼は事故が原因で松葉杖を突いて歩いていました。採用の何日か後、私は彼にこう言いました。「杖を突いているからと言って卑屈にならなくて良い。頭脳は普通なんだから頭で仕事をしなさい。君の身体で無理な仕事には、絶対に配転はしないから」 と。ある日廊下ですれ違った時彼は杖を突かずに歩いていました。大丈夫なの?無理はしなくて良いんだからと声掛けをすると、明るい顔で大丈夫ですと。 「他人は見えないものや言葉にしないことは理解できないんだよ」 と、なぜか口にしなかった事と、今も元気でいるなら良いけれどという思いが残ります。 障害に関していきなり金魚の話しを。三匹の金魚(三種)を外の植木近くに置いた焼き物鉢で飼っていました。カラスや猫が来てもすぐに隠れられるようにU字型のブロックを伏せて入れてあります。毎日餌をやるときに気づいていたのですが、二匹は元気強く近づいてきます。一匹はこわごわの様子で後からきます。人間でも三人は友達になりにくいけれど、二人とか四人ならそうでもないという傾向があるのと同様です。飼って三年ほど経った頃、元気者の金魚二匹がいません。鉢の外回りを見てもいないのです。多分猫に食われたのでしょう。何年か後に気の弱い金魚はエラが反り返る病気になりましたが、餌をやるときに鉢を爪で叩く音には寄ってきていました。恐がりではありましたが、長寿を全うし2026年5月3日に別れ。南天の根の近くで土に帰りつつあります。 |
| ③【ありあわせの能力】 能力と言っても、人から感心されたり日常生活に役立つような格別なものを私は持っていません。食事の用意に関しては全く無能に等しい。その代わりと言うと変ですが、お陰様で食事を不味いと思った事はない。食器を洗おうとしても、自分のお箸とコップだけなら文句は言われない。真剣に考える必要のない話しは、口を開けば何処までが冗談で何が本気か家族にも通じない。でもまあこの能力は懸命に生きてきた過去に、いつの間にか身に付いた変わった能力。厄介なのはその冗談が多い事。もし私の冗談が冗談として通じる人が現れたら、私はどう感じるでしょう。しかし、悪事を働いて生きてきた訳で無く、普通に向上心を持って生きてきたならそれで良いではないか。地球上で最上最高の能力を目指しても、達成できずに苦しいばかりで格別な意味は持たないと思います。 |
| ④【もう一つのゴールデン・スランバー】 私も人並みに夢を見ます。しかしその夢を家族に話すことは滅多にありません。夢の内容が大切とか格別なものと思っていないからでしょう。でもその夢を読書感想サイトに記載したことが三度あります。直近では、読書をする中で主人公をどう理解し表現すればいいのかと迷い続けていました。するとある朝、ああ!こうだなと気づく夢でした。夢と言っていいのか寝とぼけてと言う方が良いのか判然とはしませんが。 もう一つの夢は、この世に存在しない (少なくとも全く知らない) 人が現れて経験したことの無い作業を共に行った夢でした。今一つはこちらです。 でも、著者のように様々な難しい事柄を考え続けて生活をしていませんので、小人さんも来てくれません。しかし何かしら気掛かりな夢を見た場合は、口に出したいと思うのが普通だとも思います。そのときに相手から 「へえー?」 とか 「ふーん!」 と適当に言ってもらえれば、唯それだけでGolden Slumbers に早変わりすると思います。 |
| ⑤【つたなさの方へ】 著者はあるとき陶芸を生 業とする友人にこんな質問をしました。「土をこねていて、土の方から こんな形になりたいですと言ってくれるようなことって、ある?」 と。 如何にも子供じみた質問と表現されていますが、私はとんでもなく核心を突いた言葉だと思います。様々な芸術性をもつ作品と向き合う人達は、凄い腕を持つ人でも数学のような正解の無い物事に対して、苦しみを重ねながら完成させる事が少なくないと思います。そしてそれは紹介されているジュンパ・ラヒリ著の 「べつの言葉で」 に明かされています。その陶芸家からもらった何気ない小さな器が、机の上から、途方にくれる自分をじろりとにらんでくる、と締められています。 全く異なった発想を持つことは簡単なようで実は途轍もなく困難だと思います。自分の人生に違う視点が持てるかと問われれば、私は持てないと答えるしかない。或る人にとっては何でもない事も、自分には難しいと感じる事は多い。でもそれで良いではないか。できる事とできないことを併せ持つのが人間。完全な人は居ない。そこで私の場合は、パソコンの待受画面から亡き愛犬が 「お爺ちゃん大丈夫?」 といつも見てくれています。 (その2 )に続きます |
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