《私の本棚 第230》 平成28年正月閑話
本を読む機会はそれなりにありますが、最近は印刷物だけでなく電子書籍リーダーも普及し、旅行の折には持ち運びに重宝します。本の選び方も年齢とともに少しずつ変化し、新聞の日曜版・岩波の
「図書」 ・青空文庫、さらに出版物の後書きに述べられる気にかかる書籍を読むことも増えてきました。その様な中で何かに引かれるように、四冊の書物を読みました。その過程で考えたことをお話したいと思います。 作者や発言者は次の方々です。寺田寅彦 (物理学者・随筆家・俳人) 、小川洋子 (小説家) 、河合隼雄 (数学家・臨床心理学者・新潮学芸賞受賞など) 、立花隆 (ノンフィクション作家) 、谷川俊太郎 (詩人) 、藤原正彦 (数学者・カウンセラー・エッセイスト) 。ふらふらとさまよいながら書きますので、学校に在籍中の皆さんは汲み取り補いながら読んでください。 一番最後に読んだのは小川洋子氏の 「博士の愛した数式」 でした。存在は発表の時から知ってはいましたが、今回初めて他の三冊から導かれるように読みました。作者は早大文学部卒ですが、当然数学にも一定の力と素養があると思います。ベースは人間愛と口にする事は許されない秘めた愛。その展開のなかに数学を繋ぎ粉のように用いています。出てくる用語は√・階乗・素数・積数計算・三角数・約数・完全数・過剰数・不足数・自然数・偶数・楕円の研究・友愛数・双子素数・整数・硬式球が落下するときの衝撃は…・奇数・非ユークリッド幾何学・オイラーの等式・円周率・i・メルセンヌ素数・フェルマーの最終定理・対数・十進法・素数定理などです。これを聞くだけなら、こういった用語が随処に出てくるものが小説とは思えないのが普通です。しかしこれは立派な小説です。 小川氏は書くための取材にお茶の水女子大名誉教授の数学者藤原氏を訪ねています。教授はこの本の解説をされていて、主人公 「私」 の誕生日220と博士の持つ恩賜の時計に刻まれた284が極めて稀な友愛数という設定や、江夏の背番号28が完全数という点が成功していると述べられています。初めはこの数学者の解説文が、なぜこんなに奇麗な文章なのか疑問でした。しかし調べると、エッセイストとも紹介されていましたから納得。ただ、どこまで感じたことを正直に表現されているか分かりませんが、 「作者小川氏の小説としての最大ポイントは此処」 という指摘は少し違うような気がします。私は、博士の義姉がオイラーの等式メモを見つめるシーンこそが、数学者には書けない文学であると感じています。そう思って読むと、数頁あとに出てくる凡そ1頁に亘る文章は無い方が良かったのでは…。小説の中には表現されていませんが、この博士の記憶は80分しか持たないこと以外に、同時にサバン症候群でもあったという設定だと推測します。 今一人、この作品の感想を述べられているのが河合氏です。氏は京大の数学科を出て数学教師をした後、ユング心理学の日本の第一人者になった方です。この先生は長年臨床治療をなさっていましたから、相手の話を聴くことが習慣になっていると思われます。作者との対談の中でも概ね 「いいね」 というスタンスで話されている感じを受けました。 立花氏は誰もが知るとおり、万巻の書を読み百巻の書を著す知の巨人です。読み聴き書く習慣を身に付けておられます。谷川氏は言葉を一つ一つ推敲し紡いでリズムを確かめながら詩を生み出していかれます。表現された言葉は簡単ですが、そこに至るまでに多くの言葉が生まれては消えていったと思います。 寺田寅彦の随筆は中学校の教科書にも掲載されていたようなぼんやりした記憶があります。今回の一連の流れの中で読んだのは 「科学と文学」 昭和八年発表のものです。他の四氏のものとは異なり、いかにも堅苦しく読みづらいものでした。しかしその中には・・・文学の内容は 「言葉」 である。言葉でつづられた人間の思惟の記録でありまた予言である。言葉をなくすれば思惟がなくなると同時にあらゆる文学は消滅する。・・・という一文や、・・・文字で書き現わされていて、だれもが読めるようになったものでなければ、それはやはり科学ではない。ある学者が記録し発表せずに終わった大発見というような実証のないものは新聞記事にはなっても科学界にとっては存在がないのと同等である・・・という見解が述べられています。 私は近年の 「文系学問は不要の学問である」 と主張する一部の (官僚?) 意見には大反対です。偏った人間の偏ったレベルの傲慢な思い上がりであると考えるのです。もしもその様な主張をする者が、生まれつきこの世に存在しない言葉を発し、自分が作り出した文字を駆使し、一切の書物や論文を読まず、誰に教わる事もなく誰とも議論をなさぬまま、ありとあらゆる文明の産物を自ら発見発明し、今日に至ったのなら、信用しましょう。文系学問をベースにしないで理数系学問は成立しないでしょう。偏見を述べる人は往々にして、理数系は1とゼロで解決すると言います。ならば彼等の存在は不要でしょう。何故ならPC一台あれば足りて猶余りあります。 この世は十人十色、十億人十億色です。その曖昧かつ難解な中で問題を解決していくからこそ人間の世界なのです。 学びの途上にある青年達が、それと気づかぬままに新しい時代を創ってくれると信じています。 |
前の頁、学校では教えてくれない日本史の授業 次の頁、ケルト民話集 VolV.目次へ VolV.トップ頁 Vol.U トップ頁 Vol.T トップ頁 |