《私の本棚 第268》   平成30年6月8日号

   遠い山なみの光」   カズオ・イシグロ 作

 「日の名残」の読書感想にも書きましたが、ノーベル文学賞受賞の2年余り前に、恐らく受賞するだろうと話していたことが現実となりました。
作者は比較的寡作ですから、この際是非主な作品を読み通してみたいとの思いに駆られこの1982年作の原題 「A Pale View of Hills 」 から読み始めました。皆様よくご存じのように作者は1954年に長崎で石黒一雄として生まれました。5歳の時にお父様の仕事の関係でイギリスに渡り、英国人として成長されました。氏の根底には純粋な日本人としての血が流れていますが、言語――つまり思考――や行動はイギリス人だと思います。しかし、5歳まで日本で育ち少ない語彙ながら日本語で話していたことを考えると、氏が意識するしないは兎も角、感性の奥深くにはぬぐい去ることのできない日本的なものが存在していると想像します。
 初めて読んだときは多少の戸惑いがありました。人と人の関係がすんなりと入ってこないのです。更には様々な展開の中に後々のヒントになる事柄が含まれているのですが、年齢の影響――ということにしておきましょう――か即理解するとまでいきませんでした。人生論ノート以降初めてもう一度読み直しました。この作品で感じたことは、日の名残の後に読んだこともありますが、やはりドアーの無さを感じます。決して悪い意味ではなく、話しの展開がいつの間にかそれとなく別のシーンに変わっていきます。つまりは、この作品で意識的に工夫されていたのだと思います。長崎での展開からいつしかイギリスでの会話に移ります。明瞭にドアーを設定した箇所もありますが、そうでない展開も多くあります。そして何よりも登場者の会話――つまり意思疎通――が見事に噛み合わず成立しないのです。
 これは作者が最も表現したかったことなのでしょう。登場人物は皆悪意のない人達です。しかし自分の思いは伝えようとするが、相手の話にかみ合わせる努力をしない或いは極端に下手なのです。どんなに会話をしていても相手を心底理解しようとしている様には見えません。
 翻訳者の小野寺 健氏は・・・語り手でヒロインでもある悦子の生涯は…女性の自立というテーマが、全体をつらぬく一本の強い線となって作品をまとめているが、・・・と解説されています。しかし私は小野寺氏もサラッと触れられているように、様々な技術的なものを試されているように思います。つまり会話の書き方が大変気持ち良いのです。それも見事と言うほど噛み合わない会話です。それと原題を感じさせる不安が全体を覆っています。当人達は悪人ではないのにつきまとう不安、噛み合わないことが原因なのかそれとも根底に不安があるから噛み合わないのか。何処かで目にしたように思うのですが、作者は不条理をテーマの根底に持っているようです。不条理とは道理に反すること、不合理なことを表します。他人を思いやる心が有るのに出てくる言葉は常に相手と噛み合わない。そこから湧き上がって来る不安。母と娘・私と彼・夫と妻・父と息子・妻と義父・私と友人・私たちと世話になった恩人、皆噛み合いません。万里子という少女の不安。大人は子どもや弱者を死に追いやるものではないのか?という漠然とした不安と、それを理解してやる感性が欠如している大人の存在が大きく背後に流れ広がっています。作者はやはり哲学者ですね。
 今ひとつ触れておきたいのは人称のことです。冒頭からも出てきますが、彼・父・夫・お義父さん・●●さんなど、敢えて同一人物の呼称を変えているところがあります。私は何度かこのシーンに出会ってからオーストリアのエルフリーデ・イエリネクという女性作家を思い出しました。邦題 「したい気分」 という1989年の作品です。彼女は2004年にノーベル文学賞を受賞しています。図書館で偶々手にしたこの作品をみ初めましたが、余りの難解さとポルノ的内容に投げ出しました。この歳になってこの作品を理解する努力が必要か?何故この作品が受賞したのか?と。
その作品の人称表現が似ているのです。訳者の中込氏も後書きに述べられていましが、翻訳作業も大変だったようです。したい気分の人称表現技法はひょっとしてカズオ氏の作品からヒントを得て真似たかも知れないと想像しています。彼女の他の作品を読んでいないので逆かも知れませんが (お許しを)。
 遠い山なみの光が名翻訳であることを承知の上で一言。悦子が義父を起こすシーンで 「ぐうたら」 と言う表現を二度用いているのと、藤原さんにご馳走してもらった丼を食した後のお礼に対して藤原さんが 「何をおっしゃる。もっとましな…」 と表現していますが、これはどうなんだろうと、私が素人であるが故に、又、日本人作家の作品と錯覚を起こしそうになるくらいに見事な翻訳であるが故にそう感じました。

何のかのと えらそうなことを言いつつ、充分楽しませてもらいました。
 
道の駅あに、あんな本こんな本、あんな本サイクリング、あんな本こんな本、あんな本サイクリング、カズオイシグロ、遠い山なみの光、


 道の駅 あに

 夜明け風景

 
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 (1)遠い山なみの光   (2)浮世の画家   (3)日の名残   (4) 充たされざる者  (5) わたしたちが孤児だった頃   

 (6) わたしを離さないで    (7)夜想曲集     (8)忘れられた巨人    (9)クララとお日様