《私の本棚 第270》   平成30年8月3日号

   「浮き世の画家」    カズオ・イシグロ 作

 1986年、作者の長編第二作です。翻訳の技術的なこととして、人名や土地の名称を漢字表記にしたことを色々と言う方が多いらしいのですが、作品の舞台と作者の出自を考えれば妥当なことと思います。敢えて 「外国人の作」 である言い聞かせつつ努力しながら読むという不思議さを経験させてもらいました。全体として一般的な小説を読んだ感想のように表現すれば、

― ― ― 名実ともに大きな商家の跡取りとして生まれ育ちながらも画家を志すようになり、「絵描きなどという者は…」 とさげすむ父の言葉をはね返して信じる道を歩み始めます。そんな 「私」 ですが、若い頃は高名な画家の内弟子として庇護を受けながら戦争を挟んで次第に世に認められるような恩師を越えた大家になっていきます。戦時中は時代の求めに応じて戦意発揚の絵を書きもしました。弟子仲間との軋轢もありますが、戦争というものの宿命とでもいうか、国中のあらゆる産業と人心が同じ方向を向いていなければならないのは当然であるという信念を持って生きてきました。そのお陰で生家を凌ぐほどの大きな屋敷を手に入れることもできました。長男は戦死、長女と次女は無事に孫をもうけてくれます。長女の夫は私の長男の戦死に絡んで、私に対して素直に歩み寄れないわだかまりを持っていますし、次女の最初の縁談 (相手は相当格下の家柄) は私の過去の画風 (画業) から破談。しかし二度目の縁談は私の名声によってこれ以上は無い結果を生みます。己の人生を振り返った時、かつての恩師を凌駕した充実感が湧き起こってきます。この気持ちは決して勝ち誇った自惚れたものではなく、あらゆる労苦に打ち勝ったという自分への褒め言葉のような充実感でした。― ― ―

 ということになるのですが、そんなにとおり一遍の面白くもないような作品ではありません。遠い山並みの光日の名残と同じようにドアーの無い不思議な世界に引き込まれていきます。「私」 の語る言葉で展開していきますが、いつの間にか時空を越えて過去へ誘われます。会話をしている途中で、過去の記憶が展開されます。読者は 「語る私」 の聞き手なのです。恰もアルバムを繰るように現在の状況を見せたかと思うと、過去に立ち戻って語りかける。この穏やかな展開と語り口は作者独自のものです。敢えて一般的な 〔読書感想〕 を先に書きましたが、読まれた方ならおわかりのようにこれは無理矢理に表現したもので、並の小説ならそれでお終いです。しかしそれを一級の物語に仕立てる技量が作者にはあります。この構成や表現方法は今までに無かったものだと思います。語り手の私はあくまでも主人公の私であり、作者ではないのです。何が何でも私と作者を重ねようと努力すると可能なのはこの最後の一場面かと思われます。
 私はかつて七年間お世話になった恩師の荒れ果てた無人の別荘へ懐古の小旅行に出かけます。当時、恩師から漫画くらいなら君にも仕事があるだろうとこき下ろされたあの別荘です。そんな別荘を見下ろす丘でみかんを食べながら、物思いにふけります。

・・・原文引用・・・

さっき言った勝利感と満足感が内から強くこみ上げてきたのである。その感じをことばで説明することはむずかしい。それは小さな勝利の体験からくる得意さとはまったく違うし、前にも言ったように、〈みぎひだり〉 における祝賀会のどの段階で経験したものともまるで違っていたからである。それは、自分の苦労がようやく報われた、これまで続けた刻 (こつ) 苦 (く) 勉 (べん) 励 (れい) や疑惑克服の努力がすべて空しいものではなかった、自分はいまほんとうに価値あるもの、名誉あるものを成し遂げた、という確信から生まれる強い幸福感であった。その日、わたしはそれ以上は別荘のほうに近づかなかった。もはやまったくその必要がないと思えてきたからである。わたしは小一時間もただそこに座り、心からの満足感を抱きながらみかんを食べつづけた。

   ・・・略・・・

松田はわれわれの共通性について考えていたからこそ、顔におだやかな笑みを浮かべてこう言ったのだと思う―――「少なくともおれたちは信念に従って行動し、全力を尽くして事に当たった」 後年に至って、自分の過去の業績をどう再評価することになろうとも、その人生に、あの日わたしが高い峠で経験したようなほんとうの満足を感じるときが多少ともあったと自覚できれば、必ず心の慰めを得られるはずだ。

・・・以上引用

 カズオ・イシグロが表現したかった核心はこの引用文のなかにあると思います。しかしどこまでもわたしは 「私」 であり、カズオ・イシグロは表に現われてはきません。 2018年8月3日(古稀)という日に この作品をご紹介できることに 一入の感慨を抱きます。
 
あんな本こんな本、あんな本サイクリング、あんな本こんな本、あんな本サイクリング、カズオイシグロ、浮世の画家、


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 (1)遠い山なみの光   (2)浮世の画家   (3)日の名残   (4) 充たされざる者  (5) わたしたちが孤児だった頃   

 (6) わたしを離さないで    (7)夜想曲集     (8)忘れられた巨人    (9)クララとお日様