| 《私の本棚 第358 》 令和 8年1月2日号 「変な本とのご縁」 佐々木 閑 著 京都新聞 「天眼」 |
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昨年12月14日付京都新聞朝刊の【天眼】に佐々木先生のお言葉が掲載されていました。私はこれを読んで、「あッ、これ程の先生でもご縁という事を感じておられるんだ」 と思いました。 12月はこのHP全サイトの“リンクのさせ方”をチェックしていました。自分なりに気掛かりなことがあり、必要な箇所の修正をどうにか終えたタイミングに重なります。読書感想Vol.Ⅲの目次には、書名の後に(苦衷の青少年達へ)と付記したものが幾つかあります。いつ頃付記し始めたのか記憶は曖昧ですが、ここ1~2年のことでしょう。これ等以外にも、読む人の日常経験に依っては何かしらの響くものがあるかも知れません。それは言うまでも無く、私の書いた文章では無く 『基になった書籍』 です。付記するか否かを迷った作品は幾つかありますが、第357号の 「死ぬ瞬間の5つの後悔」 は前号ですから記憶しています。それと併せて 「ご縁」 という言葉を書いたサイトは沢山あります。 先生は20歳頃に 「変な本」 と出会い、それから50年程の年月を経て、その本との出会いは 「ご縁」 だったと気付いたと仰っています。決して大袈裟な表現では無いと思います。その 「変な本」 は現代の日本語訳版が在ったとしても、一般人である私が読めるようなものではないでしょう。優れた先生でも、ご縁と気付く迄に半世紀の時間が必要でした。それ程にご縁というのは気づきにくいものだとも思います。私は、苦衷の青少年達にもそれを知って欲しいと思うのです。その苦しみの真っ只中にある状況で、何かをご縁と感じる事はほぼ不可能でしょう。でも様々な本を読みながら登場人物の心を考える事ができれば、それがいつの日か 「ご縁」 という記憶になると思います。読書はいろいろな読み方があります。でもご縁に繋がるような読書は、何かを探し出す為の様な速読の流し読みでは無く、心を込めて読む遅読だとも思います。 偶然のタイミングで佐々木先生の言葉に触れたのですから、節目として私自身が得た 『ご縁』 を、改めて若い人達にお伝えすることも良いだろうと考えました。 先生の 【天眼】 を読んだ後日、「あの時のアレが自分のご縁だったのだろう」 と気づきました。その気づきは、夜か明け方の〔虚ろな夢〕状態の時です。 〔・・・中1の時だから満11歳か12歳の時、三木清の人生論ノートを読みふけっていた。その結果として中2の国語授業時間中には、中村草田男の 「冬の水一枝の影も欺かず」 という句を瞬時に解するとんでもない子供に成長していた・・・〕 |
| この事実は今もってして、考え抜く力が身に付いたから道を踏み外すこと無く今日を迎えたと思っています。しかし良く考えて見るとそれだけでは無かったと、この時の夢の中で気づきました。 〔・・・『冬の水』 を先生が音読された後、「この句の意味が解る人はいますか?」 と質問された。間髪を入れずに手を挙げようと思ったその瞬間に、「これが解る人は哲学者です」 と言われた。そうなると最早、挙手はできなかった・・・〕 この瞬間の出来事が正に私の人生にとって 「ご縁」 だったと、喜寿の夢で気づいたのです。 当時の事については別のサイトにも書いていますが、若い人達の為に改めて順序良く伝えようと思います。 1.中1で人生論ノートを読み切った 2.中2で 「哲学者ですね」 と言ってもらえる機会を失った (格別な不満は無) 3.その頃、自分は船乗りに成りたいという強い夢があった。しかし親は高校から京都大学へ進学しろと言う。 4.中3でもう一度、船乗りに成りたいと言ったが無視された。 5.近視でもあり、相談も出来ずにモヤモヤとした心のままに高校進学。従って勉強をする気持ちは湧いてこず、成績は下がった(思いで話し鬼の出てくる童話に心状) 。進学祝いに買ってもらったサイクリング自転車で時々走っていた。 (格別な練習はしていない) 6.高3の夏休みに向日町競輪場で週1回、20人程の人達とトラックレーサーに乗せてもらった。3回目の頃200 mタイムトライアルで12秒の成績。直後に選手としてスカウトされたがその場でお断りした。何気なく父親にその話しをすると、何処かで選手活動に関して情報を仕入れてきた。馬鹿臭い!!気に掛けるタイミングも内容も違うだろう!!との思い。無言で無視。 7.その2ヶ月ほど後の10月頃、大学進学も競輪選手にも意欲はゼロの中、社員10人程の会社に就職を決めた。しかしどうしても仕事の内容が自分に合わなかった。1年余り経った頃休みをもらって長崎市へ。家族には旅行とだけ言ってあるが、目的は船員に成りたいので市内に在る通信学校を見学の為。学校見学の直前に新聞販売店を訪問し、住み込みで配達員をさせてもらえるか尋ねた。結果はOK。ところが、学校の先生から何故かしら 「貴方の様な人は東海大学へ行きなさい」 と言われた。どうしてこのタイミングでこんな事を言われたのか?、私にすれば追い払われたような気分。自分には入学試験勉強をするような気力は無かった。校門を出るとき、何かしら一本の細い糸が切れたような虚ろな感覚。 8.会社では大事にしてもらっていたが、およそ2年程勤務の後転職。その1年後に事務職に配転。6ヶ月後に簿記の面白さを知った。その会社でも色々とあったが、耐えてと言うか心から投げ捨てて仕事に励んでいた。25~26歳頃のある日、仕事中に突然、船乗りの夢が消えている事に気づいた。この職場では労いも褒め言葉を貰う事も無かったが、仕事の知識を高めるため自分の判断で様々な資格を取得。気づいたときはそれなりに成長していた。(自負心は無) 9.27歳で結婚。14歳上の未婚の姉を気遣って親の家近くで生活。しかし私たち夫婦の気持ちを察することの出来ない肉親、特に母親と兄夫婦が直接・間接に妻を苛め抜いた。父親は知らぬ顔。4年で転居、自分の心から親兄弟を捨てた。35歳の時、高校生の時から気に掛けていた姉が、あろう事か病により一番早く他界。その3年後には母親、45歳の時には父親他界。この3人には必要以上の事を、耐え抜いた妻がしてくれていた。46歳で亡父一周忌を済ませた後、兄家族とは絶縁。かなり以前に、この11歳上の兄には 「天網恢恢疎にして漏らさず」 という言葉を教えた記憶がある。しかし考える事無く笑うのみ。老子の言葉通りの終焉 (それがいつだったのかは全く知らない) であったろうと云う揺るぎない思い。いや、思いどころか様子が浮かぶ。 10.本当に妻のお蔭で何の悔いも無し。その後49歳で独立自営、墓参は60歳を区切りとした。75歳で廃業。過去に思い残す事は何も無い。 今年8月に78歳を迎えるこの身は、佐々木先生の 【天眼】 を読み幻のような夢も見て、自分に天から与えられた 「ご縁」 を悟りました。65年程昔、国語授業時間の挙手出来なかった瞬間の出来事が、正に自分に与えられた縁でした。若しあの時挙手出来ていたら、親の言いなりに大学へ進学する切っ掛けに成っていたかも知れない。しかしそれが自分の人生の幸せに繋がったとは到底思えない。大学へ進学してもその後何か良いことが起こるとは限らない。それどころか自分と親兄弟の関係で最悪の状況に陥った可能性は大いに想像出来る。 高校生や二度目の社会人生活の折、嫌な事も沢山あった。仕事中のあるとき、同じ課の同僚から 「あなたの言う言葉は冗談か本気か分からない」 と笑いながら言われた事がある。私は彼女に 「冗談でなければ生きていられない」 と冗談めかして返した。恐らく私の心は理解されなかった筈。 しかし嫌な事も多かった勤務を、冗談でなければ...という程度の軽い気持ちで過ごせたのは、自分の心の底に染みついた人生論ノートのお蔭だったと思う。他人の何気ない言動も、瞬間的に自分の耳と目と心で咀嚼し判断することが可能になっていた。 これも 【天眼】 記事の数日後の事ですが、TV番組で高知競馬場の競走馬 「ハルウララ」 を見ました。二度目の放映と記憶します。百回以上レースに出て、いつもビリです。競馬場の採った 「構わないかなあと思いつつ行った」 一寸した宣伝行為が、大勢の人達の気持ちを惹きつけました。人間ではありませんから嫌気が差して適当に走る何てことは無いでしょう。武豊さんが騎乗しても同じ結果でした。観客はそれを承知していながら応援し続けて最後を見送りました。ハルウララは沢山の優しい気持ちを受けながら旅立ちました。そういう事も有るのです。 人は決して自分の人生を投げやりにしてはいけないと思います。どんなに苦しい事があっても、耐えて・考えて・努力をして・できる事から一つずつ越えて行く。どんな仕事でも学んで考えて実行してみる事が必要です。それを支えるためにも様々な書物を精読する。一度で気持ちが晴れることはありません。繰り返していると思い掛けないタイミングで、自分の心に何か訴えかけて来ることもあります。努力をすれば明日良いことがあると言うものではありません。結果は思いもよらない時に訪れてきますし、それに気づけないこともあり得ます。若い人達は、良い意味で自分を大切にして下さい。私自身も 【天眼】 を読んで、改めて気づきました。これも大きなご縁でしょう。 さあ 私は人様にご迷惑を掛けないよう 午年に因み 並足で無事故と健康を心がけます。 |
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