《私の本棚 第206》   平成26年4月号

     「読書術」   加藤周一 著

 著者の経験から得た読書術なるものを披露されています。その中からいくつかについて紹介します。

「精読術」 については敢えて 「遅く読む」 という言葉を使って 「速読」 に対する一方の読書法を述べています。世の中には一日一冊とかほんの5分10分で薄い文庫本を一冊読了するということを自慢げに話す人もいます。それはそれで非常に有用な事もあります。例えば何かについてできるだけ多くの書籍から拾い集める必要がある場合などです。読んだというか目を通して探したというに等しい場合が多いと思います。しかしそれでは行間から何かをつかみ取るということは難しいでしょう。一字一句苦闘の末に紡ぎ出した言葉の裏を感じる事はほぼできないと思います。精読は何かを学ぶ場合のテキストや法律の条文を読む場合は絶対必要です。その遅く読む努力からしか得られないものがあります。ピラミッドの底辺のようなものでしょうか。遅読の上に速読が成立することも多々あります。つまり、最早自分のベースになっているような内容が書かれた書籍やその箇所は読まなかったり速読で飛ばすことも可能だからです。

「読む必要のない本」 もあると述べられています。言い換えると、分からない本は読むなということです。分からない本とは自分の専門でない専門書。これは言われるまでもなく例え日本語で書かれた書籍でも読まないでしょう。著者が言うのはもう少し違う 「書き手のあいまいさ」 を述べています。それは外国語をカタカナ表記した言葉が多用されている本を指しています。更には漢字がとめどなく繋がって出てくるような書籍です。著者は、このような書籍は書き手が言葉の意味を厳密に理解していない場合が多いと指摘しています。私などはそう言われるまでもなく、バカにされた気がして読む気は起こりませんが。

「本が読めなくなるのはどうしてか」 という一文があります。前に読んだ本の知識が次の本を読むために役立ち、前に読んだ本の経験が次の本の読み方をあるいは早くし、深くし、有益にするために役立っていくことであり、自分の成長にともなって読書も成長するものであるとしています。まったく共感するもので、一般市井人の私でも他人の考えかたを理解するのに欠かせないのが読書であると思っています。全く同感です。
 
出雲、伯耆富士、あんな本こんな本




 早春の伯耆富士 
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