《私の本棚 第205》   平成26年3月号

  デューラー 自伝と書簡」 アルブレヒト・デューラー 著

 デューラーは18人生まれた子供の三男として1471年ドイツのニュルンベルクに生を受けましたが、成長したのは彼と二人の弟だけでした。父は真面目な金細工師で母は敬虔なクリスチャンでした。両親はどれほどの貧困や嘲笑、侮辱、威嚇に遭ってもそれに耐えて決して恨むことがなかったといいます。このような境遇からデューラーは版画や絵画だけでなく金銭や財産に関しても大きな関心事であったに違いありません。
 子供の頃は有数の名家旧家であるピルクハイマー家の一隅を借りて住んでいましたが、一歳上のビリバルトとは生涯深い絆で結ばれていました。この人の存在なくしてはデューラーの仕事、志操、人生観は作られなかったであろうと訳者は述べています。ビリバルトは大学を出、市参事会員を務め、古典学者として著作を残したことで有名な人です。
 1506年ベネチュアに滞在していたデューラーからビルバルト宛の書簡の冒頭はビリバルトに対する信頼と尊敬の気持ちがこれ以上にないくらい溢れ出ています。1528年にデューラーが亡くなった時は、彼がその死をを悼んで墓碑銘を書いています。
 ヤーコプ・ヘラーという人物から祭壇画の注文を受け、その仕上がりが遅いという苦情を受けた後のデューラーの駆け引きは見事と言うほかありません。当初約束した金額を増額させたうえ、妻に対して心付けを要求し実現させています。生い立ちから得た粘り強さでしょうか。
 ヨーハン・チェルッテという人物からの書簡が掲載されています。その中には数学 (幾何学) について書かれており、デューラーが平面幾何学や球体について強い関心を持っていたことが分かります。1507年に一時的に数学研究のために画業から離れていた時期があったことや、書簡が1522年に書かれていること、ヨーハンが築城技師であったこと、デューラーが亡くなる前年に築城論を書き上げていたことから、熱心に研究していたことが分かります。 (この築城論は中央公論美術出版から刊行されています)
 ネーデルラントに旅した目的の年金獲得に関しても時の皇帝カルル五世からのお墨付き書状も掲載されています。ネーデルラント旅日記と併せ読むと面白いと思います。

  原語を全く解せない私にも、前川誠郎氏の翻訳が名訳であることを充分に感じることのできる一冊です。
紅梅、あんな本こんな本




 紅梅
 
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