《私の本棚 第350》   令和7年5月6日 号

 
哀しき少年」  野上弥生子 作  
 1935年・作者50歳の作品です。日独伊三国同盟が結ばれたのは1940年で日中間も世界も不穏な情勢にありました。1945年8月15日第二次世界大戦終戦。そのような状況を背景に描かれた作品ですね。
 このような時代、三歳八ヶ月の(りゅう)を主人公として展開します。ある日隆にとっては想像もしない父親の病死を体験します。木登りが大好きな隆は、父の納棺の折「お父さんは天に昇った」と教えられると、ならそのうちに落っこちてくるよと大はしゃぎをしました。
 私はこれを読んでつい自分と重ねてしまいました。1953年8月、私5歳の誕生日にとても仲が良かった4歳上の兄が水の事故で亡くなりました。亡くなるという意味を理解できず、兄の同級生達が大勢お葬式に来てくれるのを眺めていました。中学生になると自分が亡兄の年齢を越えて不思議だという作文を書いたのを覚えています。
 隆は数学 (当時は算数とは言わなかったらしい) が好きで、正しい答えは一つしかないことが楽しみだったようです。数字を成る程と思える形有るものに置き換えて連想するところは、作者弥生子(やえこ)かお子様方の発想なんでしょう。隆は学校へ行っても関心があるのは数学だけで、他の科目は先生が何と言おうが受け付けません。しかし本来頭の良い隆は、四年生で入学試験の三、四ヶ月前に猛烈に勉強しだして7年制の学校に合格しました。(当時の学校制度が良くわからないのですが、今なら進学校の小・中・高一貫校へ入学と解すれば良いのでしょう)
 でもやはり、反抗心というか自立心の強い隆は、母親や姉を振り回します。学校の軍事教練は大嫌いで、その最中に逃げ出します。逃げ帰って庭の木に登り隠れていると、亡くなった父親の様子や同じ病院内を歩く患者の外国人が浮かんできます。隆は軍事教練を放棄したことは忘れて、お腹が空いたことが哀しくてむせび泣きました。
 良い作品ですね。どうしてあの時読む気が起こらなかったのでしょう。世情が難しい時代に、反戦としてではなく少年の哀しい心を書くことで多くを伝えています。作者の頭の良さが感じられます。ウィキペディアを読んでいると作者・ご主人・子供の皆様方が大変優秀な方々と知りました。文系・理系ともに秀でておられます。それにしても何故、網野菊を野上弥生子と混同して記憶していたのか不思議です。まだ半年ほど前の事なのに?。そのうち何かが切っ掛けでアッ!と気付く事があるのでしょう。
文学記念館の係り女性には色々とご迷惑をお掛けしました。
 
あんな本こんな本サイクリング、哀しき少年、野上弥生子、大分県臼杵市 


野上弥生子文学記念館


佐伯城跡にほど近い場所に
あります。



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あんな本こんな本サイクリング、哀しき少年、野上弥生子、佐伯城跡 


佐伯城跡



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