《私の本棚 第321》   令和4年11月22日 号

          「ミチクサ先生」  伊集院静 作

  日経新聞に連載していた作品を講談社が上下二巻として発行しました。漱石作品を全部読みたいと思っているので、漱石を客観的に表現しているであろう作品も面白いのではないかと手に取りました。表紙が良いですね。何よりもほのぼのとした雰囲気が漂います。ただ、新聞連載の体裁をそのまま書籍にしてあるので、前後のつながりに、ウン?と感じる箇所もありました。幼少の頃から一高時代の子規との終生変わらぬ交流、漱石を慕って押しかける多くの門下生や朝日新聞の主筆渡辺三山との係わりなど活き活きと伝わってきます。寺田寅彦鈴木三重吉中勘助島崎藤村志賀直哉芥川龍之介などなど門下生と呼ばれる人達の後年の活躍は広く私たちの知る所です。漱石は余りにも押しかける門下生(自称も含む)が多いため、木曜日だけ面会をするという趣旨で「木曜会」を設けました。彼らの優れた作品を新聞連載として推薦しその後の道を開いたことはよく知られています。われが吾れがという狭量ではなく、あくまで文学そのものを追求する中で広く後輩達に陽の光を当てました。文学博士号の授与を拒否し大学教授の職を捨てて、当時の国民にほぼ馴染みの無い文学の世界に足を踏み入れました。作品を読んでいると小説として筆を走らせた所と事実を表現したところがよくわかります。

  長兄の大助は金之助(漱石の本名)を良く可愛がりその能力を評価していました。金之助の英語・漢文などの素養は長兄の導きに依るところが大きかったことは知られています。大助が金之助に言ったこんな一文があります。

「金之助、本を読むというのは船で海へ乗り出すようなものだ。一頁一頁、艪を漕ぐように進んでいけば、見たこともないような海の眺めが見える」
---- と。

又、金之助が愛媛県尋常中学校の卒業式で生徒に送る言葉として、
「学問であろうが、芸術であろうが、人一倍苦労せねばできるものではない」---
と生徒達の学問への姿勢を糺したともあります。

これは何かから引用された事実では無いかと思います。僭越ながら私も似た思いを持っています。蔵書はそれほど沢山では有りませんし、速読でもありません。しかし丹念に読み進めると記された言葉の後ろに何倍もの思いが秘められていることに気づくこともあります。例えそれが作り物の話しであっても、そこには登場人物という一人の人生が存在します。読書習慣が薄れてきている現代の青年達も、是非このような感覚を経験して欲しいと願います。

  明治22年2月11日の 「大日本帝国憲法」 発布時の様子に筆が及んでいます。独逸の憲法を参考にしたのですが、日本の法律は全て基本はドイツから学んでいて、所謂「成文法」の形式になっています。しかし最高裁判例は「判例法」ともいえます。話しがそれましたが、このときに初めて 「万歳三唱」 が起こったと書かれていました。この辺りは 「趣味の遺伝」 に漱石が言及しています。この頃から第二次世界大戦敗戦に至る時代の出来事や流れは、皇室が常に心に留めおいて戴きたい世情ですね。 

  明治30年の頃には、夫婦といえども並んで歩くという事が少なかったという表現があります。三歩下がって影を踏まずということでしょうか。現代なら反対に、小急ぎで妻のうしろを追うといった事も有りうるでしょうね。
全体として漱石を読む準備にもなりますし楽しい作品ですから、是非一読をお薦め致します。
あんな本こんな本サイクリング、親不知海岸、伊集院静、ミチクサ先生




  親不知海岸




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