東京生まれ、昭和40年没。大正元年9月27歳の時に前編を書き上げ。批評を受けようとして恩師の漱石に送りました。漱石はこの作品を高く評価。東京朝日新聞に連載中の
「行人」 が病気中断のおり、穴埋めとしてこの作品を推薦し、掲載されます。当時は褒貶半ばだったようです。そもそもこの作品を知ったのは岩波書店の 「図書」 第753号の巻頭言に掲載された、元教師・橋本武氏の追憶からでした。前編は擬音語が鼻につく感じを受けましたが、当初から作詩家志望であったといいますから当然と言えば当然のことでしょう。
虚弱体質で生まれ、他人に対して臆病で、脳の発育も不完全 (勉強ができない) であった 「私」 は常に伯母さんに守られて、その背中から世の中を見ています。遊び相手は女の子で、お国さん、お宸ソゃんの二人でした。九歳の私はいたずら盛りの同級生からはいつもいじめられていました。学校では授業に関して先生から叱られたことが無いのは自分の成績が一番だからと思い込んでいます。しかしあるとき自分は脳病だからと諦められていたと知ります。その日から懸命に勉強をし、次の学期には2番の成績、お宸ソゃんは5番でした。その頃を境にして、自信が付いた私は悪ガキの大将にもなります。
ひ弱な少年が大きく変貌した様子を、ぶれない筆で美しく表現しています。遠い記憶を手繰りながら、きまじめに、恐らく虚実ない交ぜて書かれたものと思います。この前編は中学生が読むと本当に良い作品なのでしょう。断定できないのは、最近の中学生を外見でしか知らないというのが理由です。後編は高校生
(一高生) になった私の淡い恋心を書いています。私は友達の別荘に逗留することになりましたが、そこで友人の姉と顔を遇わせます。物腰も柔らかく美しい女性です。しかし私は言葉を交わすことができません。二三日でそのお姉さんは帰って行くのでしたが、「さようならごきげんよう」
と言われても目を合わさずに黙って頭を下げるのが精一杯でした。それでいて何故かしら涙が溢れてきます。お国さんやお宸ソゃんとの別れとは違って、青年の抑えがたい涙でした。
両作品を通して自分にもその様な時代 (心の中の手さへも届かない遙か) があったことを思い出しました。しかし、ならば自分も書けるかと言うと、筆力の違いなどは当然ですから度外視しても、到底このような流れや香では書けないと感じます。それほどこの作品は何か全く異なるものを感じます。それこそが褒貶相半ばという評価に繋がるのでしょう。しかし、どれだけ時代が変わろうとも子供達の心はこうであって欲しいと願って已みません。
この作品は、橋本先生が灘中学高校で国語の教材として用いられたことと、その教育方法で有名です。
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