《私の本棚 第291》   令和2年8月15日号

    「ペスト」     カミユ 作


 小中学校の夏休みが始まる前に感想を書きたいと思っていましたが遅れてしまいました。普通の小説を読むというつもりで開いたのですが、そうはいきませんでした。登場人物の名前の音が似ているので自分の頭の中で振分けが上手くいかない。ひとつの文章の開かれ方が単純で無いというか、流れが真っ直ぐでなく渦巻きながら進むような展開をする。最初のうちは自分の読解力を棚に上げて翻訳者をちょっと責めてみたりもしました。4分の3ほど読み進んだ所で気を取り直して最後の解説ページへ飛んで読む内に、今更ながらカミユが哲学者と知り納得です。アルジェ大学文学部哲学科を卒業後様々な職業を経て、パリの夕刊紙記者に迎えられ1942年に最初の小説 「異邦人」 と哲学的エッセイ 「シーシュポスの神話」 を書き上げました。その 「異邦人」 はサルトルをはじめ諸家の激賞を受け、1947年 (私の生まれる前年) に 「ペスト」 を発表すると僅か6ヶ月の間に世界的名声を得ることになります。そのような解説を読んだ後残り4分の1を読んでから、冒頭に戻り再読しました。
 文章は淡々として感情を抑えながら、極めて客観的に人間の心理と行動を表現します。それでいて人間に冷たいのではなく優しく包み込んでいます。登場人物の誰に対しても優しく愛情を持って包み込むように相手を理解します。カミユは厖大な架空の記録を構成するために6年を掛けて完成したとされています。
更には・・・ 「この周密な大作を十分に読みこなすことはなかなか容易でない。読者はまずこの作品の構造を分解してみる必要があろう」 ・・・との翻訳者の言葉を読んで多少安心しました。
 この作品に流れる最も大きなテーマは不条理です。広辞苑に拠れば不条理とは 「人生に意義を見いだす望みがないことをいい、絶望的な状況、限界状況を指す。特にフランスの作家カミユの不条理の哲学によって知られる」 とあります。ペストが発生してロックダウンされた街で、何の望みも持てないような状況下において、人々はどう生きるかということを、医師のリューは淡々と記しています。登場するパヌルー神父は当初、ペストは神の懲罰である、従ってその許しを請うために祈りなさいと人々に説いていました。しかし何の罪も無い幼児の死を目の当たりにして混乱をします。結果その不条理の故に神を信じなければならないと言います。まさに不条理の極みとも言えます。カミユはこの作品を、自身の作品中最も反キリスト教的と述べています。神父も医師リューも根底にある規範は異なるのにもかかわらず、我を捨てて良しとするものに向かって前進するという考えあるのみとします。自分の職業や身分という鎧を捨てて、そのように考える以外には心の正常を保って生きる道はありません。リューはロックダウンされた街から出ることも叶わず、屏の外で入院生活を送る妻と言葉を交わすことができぬまま、妻を亡くします。
 カズオ・イシグロの「日の名残」を読んだ時、近未来のノーベル賞受賞を感じたと同じように、この作品も当然という印象を受けました。この作品中、ロックダウンされた街には1カ所だけ出入り口があり、そこには銃を持った兵士が番をしていたとあります。この街に居て聞こえてくるのは救急車のサイレンと病人の呻き声、それと時折聞こえる銃声だけです。つまり、万一脱出をこころみる者がいれば射殺されるわけです。ペストで亡くなった人も最初の内は一人ずつ墓地へ運ばれて埋葬してもらえますが、増えてくれば運搬車のピストン輸送と一つの墓穴にまとめて埋葬、さらには墓地そのものが不足という事態に陥ってきます。この辺りの描写は想像だけとは言い難く、何らかの資料からのものと思われます。
 又、最近テレビで見た光景ですが (何処の国かは忘れました)、コロナ罹患が集団発生した時に、比較的小さい範囲の区画をフェンスで囲っていました。番人も居たように思います。世界中でコロナが大流行しています。日本のテレビも毎日これに関してニュースを流しています。しかし、ニュースにはならなくとも、とんでもない事が起こっていないとは断言できません。小説ペストのような日々ならまだしも、罹患が判明した途端に当人は地上から行方不明となるような国が無いとも断言できないのです。またTVニュースのニュアンスに些か違和感を持つこともあります。例えば 「国や都道府県は民に対してお願いするばかりで、命令をしない。営業時間を自粛して下さいとか、県境を跨いで移動することは慎重にお願いしますとか、『お願いばかりだ』 」 というものです。更にはPCR検査の数が少なすぎるという意見は当初から流されていました。行政が行う策に対して、何かの不足を見つけてあれはダメこれもダメ、成ってないというのはいとやすい事です。しからばそれに代えて何をなし得るのかというコメントが出てこない。何処そこの国ではこんな事をしているというコメントをするのが精一杯。平和な折には政府を批判することに長けた野党も、この困難な時にあっては何も言わない。つまり、言わないのでは無く代替え案を全く持っておらず、何を発言しても国民を満足させられないことが明瞭であるという証左でしょう。国はそれぞれの成り立ちがあり国民性も異なります。国民一人一人がコロナ以前のような自由で楽しい生活を送ることは極めて難しい。かと言って、幸いにして第二次世界対戦敗戦(1945年)以前の状態に戻ることは絶対にあってはならない。つまりロックダウンをして兵士を門番にすることなどとてもできない。休業命令を出せば当然のこと経済援助が必要。どうすれば経済と疫病封じ込めの両立が可能なのか否か?。PCR検査も国は十分な検査態勢があると発表しているのに何故増えないのかと疑問に思っていましたが、かつて 「らい病(ハンセン病)」 を隔離した政策が誤りであった事が、PCR検査を躊躇する事に繋がっていると知りました。ある意味では今の日本国民は世界の中でも大きな自由を持つ国民でもあるとも言えます。この自由を大切にしたいと思うなら、なおかつ有り難いと思うなら、国や都道府県に対する多少の腹立たしさは抑えても各人がなし得る事、自分にとっても他人にとっても善とすることを為すしかないと思われます。
 今、手元に岩波書店の 「図書2020.8月号」 があります。この中に佐藤俊樹という社会学者が書かれた文章があります。ウイルス検査結果の偽陰性と偽陽性について述べられています。中学生以上なら読めますから是非この時期に読んでみて下さい。そこからコロナに関する行政の立場とそれに対する個人の立場を考える糸口になるかと思います。
 
あんな本こんな本、ペスト、カミユ、伊吹山 


 夏の伊吹山からの眺望

 (1377㍍) 


 

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