《私の本棚 第201》   平成25年11月号

  「ネーデルラント旅日記」 アルブレヒト・デューラー 著

 このような書き物を目にしたのは初めてで、翻訳者も出納簿文学と称しているほどです。デューラーは画家で1471年5月21日にドイツのニュルンベルクに生まれました。 日々の旅程や出会った人達との交流のみならず、その収支が几帳面に記載されています。この旅そのものの目的は、画作に対する報酬としての帝室からの年金100グルデンが滞ったために、その支給を確実なものにすることでした。解説によると当時のニュルンベルクで外科医の年収が80グルデン、内科医が100、学校教師が20グルデンであったらしいので相当な金額です。
  デューラーは出発に際して膨大なと言って良いくらいの作品を持参しています。贈り物にしたり旅費の捻出に売却するためです。日記からするとかなり気前良く贈っています。1520年7月12日に妻と侍女を伴って出発し、8月3日にアントウェルペン (アントワープ) に到着し大歓迎を受けます。8月26日まで逗留し年金受給の根回し活動を行った後、8月27日にブリュッセルに到着。一週間の間に精力的に活動を行い、マルガレータ女公から口添えの約束をもらいます。
 この一ヶ月あまりの活動は政治家顔負けの行動です。出発から一年後の7月15日にケルンまで戻って来ますが記述はそこで終わっています。これだけを読んでも、デューラーの人物像がかなり明瞭に浮かんできます。几帳面であり、対人関係も巧く処理できる人物で勿論旅行も大好きだったでしょう。彼は50歳でニュルンベルクへ戻りますが、それから亡くなる迄の7年間は、大成した画家としての活動から学者への道を次第に踏み出していたようです。「測定法」 「築城論」 「人体均衡論」 などの執筆を行います。(築城論は現在出版されていて購入することができます。) この様子を友人が次のように述べています。

 ---執筆に精魂を傾け全てを書き終えた後 藁しべのごとく痩せ衰えて、手を取って最後の別れを告げることすらできないほど急いで逝ってしまった。---。

解説では凄絶な晩年に対する天の贈り物がネーデルラントへの旅であったと書いています。しかし私は少し違うように感じます。ネーデルラントでの栄光の後、「吾唯足知」 の境地に達し、更に長い間暖め続けていた理論を文字にしたのだと思います。悔いの無い素晴らしい一生涯であった事でしょう。
 当時のネーデルラント北部は今のオランダ (ネーデルランド) で南部はベルギーです。アントウェルペンで買い付けを頼まれた宝石を探すくだりがありますが、今もそうであるように当時から世界の宝石が集まって売買されていたようです。
前川誠郎氏の翻訳になりますが、素人の私が言うのはおこがましいのは承知で、見事な翻訳であると感じます。
デューラーの自伝と併せ読むと面白いでしょう。
 
南禅寺、あんな本こんな本




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