《私の本棚 第198》   平成25年8月号

    「ザシキワラシ考」   萩原 隆 著

 著者は萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)の子供にあたります。この本は著者の娘さんから贈られた方が、私に貸して下さいました。詩人三井葉子氏が発行する季刊同人誌の楽市に掲載されたものを単行本として発行されたようです。
 「楽市」 49号迄の文章は正直言って挫折知らずのエリート臭がして、父に負けまいとする自費出版かと思いましたがそれは間違い。読み進めると医者としての職業傾向が強い内容でしたが、自分の乏しい知識を重ねながら読了できました。もし書店で手にとっていたら、まず購入する事の無いひいては読むこともなかった本でしょう。しかし大切な本を貸して戴いたことから読み進めることができ、このような内容について貸し手の方と直接対話しないまでも、それらしき事をと考え付箋(ふせん)にその時々のメモ書きをし貼り付けたままでお返ししました。
 昨今の世相を考えるきっかけになる事も 多く、読み切った時点では 「楽しかった」 という感想です。特に興味深く読んだのは、「自分探し」 、「ニート」、「鬱病(うつびょう)」 の辺りでしょうか。

「自分探し」なんてキャッチコピーは誰が考え出したのか知りませんが、モヤモヤと先がよく見えない世相とマッチして広まりました。自分を大切にしなさいという言葉と相まって、こんな仕事は自分に合っていない、もっとピッタリの仕事があるはずだという行動が増えてきたのでしょう。そこから、会社勤めを始めても社会の一員になる覚悟と自覚が無い。命じられた仕事をまともにできないのに理屈だけは二人前みたいな社員が増えてきた。自分探しって何なんだろう?。そんな言葉に振りまわされていたら生涯自分を見失ったまま終わるという哲学を持たない哀しさ。食うに困らない生活環境の中から、わたしの僕ちゃんには苦労のない生活をしてほしいという強力なママも多く、会社に怒鳴(どな)り込んでくる(すご)いママもいると聞く。自分探しとは、縁あって就職した会社で偶然(ぐうぜん)に与えられた仕事を、何処まで自分のものにできるかという事だと考えない限り、自分なんて見つからない。生きている自分が自分なんだから。

「ニート」とか引きこもりなんて言うと何だかあまり悪く聞こえないけれど、一言で言えば単なる甘えだろう。行け行けドンドンなんていう時代なら、チョット働いて(いや)なら転職も簡単だったろう。しかし今時そんな事をしようものなら次の仕事は無い。これは社会が悪いのではない。何の技術も能力もない者が簡単に転職できた時代の方がおかしかったのだ。乱暴に言えば、仕事なんて何でもいい、とにかく働いて自分をそこに据えて頑張(がんば)る。できないと思っていたことができるようになったり、見ているだけではつまらなさそうに感じていたことが、もの凄く面白い事もある。そういう自分探しをしてほしい。ニートで仕事をしない人はどれほど潜在的な能力を持っていても、絶対に花が開くことは無い。これは何故(なぜ)かというと、「花が開く」と言うのはその広狭に拘わらず世間や周囲の人達に認められるという事であり、すなわち何かしら他人の役に立つという必要性を含んでいるからだ。あれはイヤこれも合わないと言っている人間は他人の心を推し量った事は無く、他人の心に寄り添えない人間に花は咲かない。だからニートに明日は無い。他人の仕事をばかにするのでは無く何でも良いから働いて見よう。その中で周囲の人の辛抱という心の苦悩が見えるようになる、それこそ念ずれば花開くというものだ。

「鬱病」
はなぜ昨今多いのだろうか。社会が複雑化しているからとか、家族や友人関係とか原因はいろいろあるだろう。しかし一方で病院の敷居が低くなったことも一因ではないかと思うがどうだろう。私が子供の頃は心を病んでいるというと世間から白い目で見られていたように思う。しかし今は 「心療内科」 という甘いお菓子のような看板をあちこちで見かけるようになり、大勢の人 (患者) が出入りしている。医者も直ぐに薬を出しているように思う。企業における労使関係でも「鬱病」という診断書があればそれなりの対応を迫られる。しかし実例として、その休み期間中は給料は出ず健康保険の傷病手当金になりますと聞くと、「それなら休みません」という人もいる。皆がそうとは言わないが、困難から何とか逃げようという傾向が強いように思う。生きるということ、自立するということは母親の胸に抱かれているような暖かい事はほとんどない。悩み、苦しみ、考え、一歩でなく半歩でも足を踏み出すことを繰り返しているうちに強い精神力が養われてくる。鬱病の処方薬が悪いとは言わないが、薬は効力が長続きするアルコールだと私は思う。絶対的に必要な時はあるだろうが、それに便り過ぎるのは考えものだとも思う。
 私は胃潰瘍(いかいよう)で40日程入院した経験から、ストレスについて会得したことが一つある。それは 「人間は生きている事自体がストレスである」 という感覚だった。入院中はストレスを患者に与えないように配慮(はいりょ)する病院特有のシステムと、一切の仕事に関する事を考えないようにしたことで平穏そのものでした。しかし退院をして自宅へ帰ると居心地が良く暖かいはずの自宅がストレスと感じるのです。つまり人間は生きて行くためには何かしらのストレスが必要だということです。ストレスが無い状態は生きているとはいえないのです。
先月号の「晴天の迷いクジラ」も何かしらのヒントを与えてくれます。

「生きる」
ということはどういうことなのか?。決して自分探しと称する放浪やニート状態で居る事ではない。「生きる事=自分のため」 と考えることが間違っていないだろうか。より幸せになりたいと考えることは間違いでは無い。しかしそれに重きを置きすぎると 「他人はどうでも良い」 となりかねない。他人はどうなっても構わなくて、それでは自分一人で生きられるかというと、生きられない。そこに生きるということの難しさがある。自分を大切にしながら他人をも大切にする必要。「情けは人のためならず」 という言葉もある。中には意味を取り違えて 「情けをかけてあげるとその人のためにならないから放っておけ」 と誤解している人もいる。もちろん本当の意味は、人に情けをかけて手をさしのべればいつか自分も他人に助けられることがあるという意味。つまり自分さえ良ければいいのではなく、人のために生きるという教えでしょう。
 楢山節考(ならやまぶしこう)という小説があります。姥捨(うばす)て山の方がよく知られているでしょうか。子供の頃に映画も見ました。これといって労働のできなくなった老人を山中に放置するのです。泣いて哀願(あいがん)する人を置き去りにするのではなく、老人自身がその時期と判断して粛々と餓死(がし)の道を選びます。ここでは生きるということは家族のためであるという厳しい判断があるのです。
 ハダカデバネズミという小動物を知っていますか?。土中に巣を作って集団で生活し地上には出てきません。寿命は平均30年、長いもので40〜50年程の個体もいるということです。時に蛇が餌を求めて侵入してきます。このとき一匹のネズミが食われるために身を(てい)します。その後に続いた他のネズミはトンネルを土で埋めて集団を守る作業を行います。ネズミのDNAと言ってしまえばそれまでですが。

「ざしきわらし」
この本の題名のザシキワラシは「座敷童」 (岩手県) と書くのですが、お終いの方に著者のお子さんのアキちゃんという精神薄弱児のことが書かれていました。このアキちゃんは54才で他界されたそうですが、ある意味で著者の精神的支えでもあったように思います。きっと本物の座敷童のように著者のご家庭に、生きるということの意味を問いかけつつ笑顔と明るさを振りまかれたのでしょう。せわの大変さ以上に。
魚見台、夫婦、あんな本こんな本




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