《私の本棚 第318》   令和4年7月28日 号

          「 ぼ く 」  谷川俊太郎 詩
              合田里美    絵

  書籍としては子供向けの絵本です。しかし、その内容は私が読んでも中々解し難いものでした。



          ぼくは しんだ

          じぶんで しんだ
          ひとりで しんだ

          こわくなかった
          いたくなかった

          おかあさん ごめんなさい
          ジョイ さようなら

 あんな本こんな本読書感想、ぼく、ぼくはしんだ、すてきなひとりぼっち
  (メタ構造の挿入詩 「いきていて」 )

 くさが
 かぜになびいている
 あおぞらは
 うちゅうにつづいている
 ぼくはいきていて
 することがない

 あしもとから
 なにかがきこえる
 むしだろうか
 かすかな
 いのちのおと
 うたかもしれない

 なにも
 いいわけはしない
 ぼくは
 じぶんをいきる
 
          あおぞら きれいだった
          ともだち すきだった

          でも しんだ
          ぼくは しんだ

          おにぎり おいしかった
          むぎちゃ つめたかった

          でも しんだ
          ぼくは しんだ

          いちばんに なりたかった
          かねもちに なりたかった

          でも しんだ
          ぼくは しんだ

          いなくなっても 
          いるよ ぼく

          ぼくは しんだ
          ひとりで しんだ

          うちゅうは おおきすぎる
          じかんは おわらない 

          なにも わからず
          ぼくは しんだ

          なにも ほしくなくなって
          なぜか ここに いたくなくなって

          ぼくは しんだ
          じぶんで しんだ

 
 テレビ番組でこの絵本の制作過程を見ていなかったなら、恐らく絶対に出会わなかったであろう作品です。何度も谷川氏と合田氏が摺り合わせを行っていました。絵本を購入後眺めていると、詩に絵を添えるとこれ程訴えかけてくるんだと感じました。でも小学生には難しい。中学生にも難しい。私にもやはり難しい。で、谷川氏をネット検索すると、父上が哲学者で法政大学の総長だったという記事を見て納得しました。詩・絵本・紡がれた言葉・メタ構造。ちなみに小四の孫に見せましたが、 「わからへん」 の一言。
 私は十数回読みましたが分かりません。偶々京都市内へ出かけることがありましたので、書店へ立ち寄って参考に成りそうな本を探しました。持ち帰って読んでいると 「
すてきなひとりぼっち」 という詩に出会いました。この詩と 「ぼく」 が書かれた時期の隔たりや関連性は不詳です。でも何処かに何かしら深いところに心の繋がりがあるように思えます。
 
          「すてきなひとりぼっち」

          誰も知らない道をとおって
          誰も知らない野原にくれば
          太陽だけが俺の友達
          そうだ俺には俺しかいない
          俺はすてきなひとりぼっち

          君の忘れた地図をたどって
          君の忘れた港にくれば
          アンドロメダが青く輝く
          そうだ俺には俺しかいない
          俺はすてきなひとりぼっち

          みんなしってる空を眺めて
          みんな知ってる歌をうたう
          だけど俺には俺しかいない
          俺はすてきなひとりぼっち
 
 小さな子供たちに対して 「ぼく」 を是非読んでみなさいとは言えません。かなりしっかりとフォローが出来て、会話をしながらでないと読ませる自信は無い、というのが実のところです。 でも死んでしまったら全て終ではなく、そこから成長しない僕が生き続けなければならない別の世界が有る。親兄弟友人との繋がりを持つことが出来ない僕は、成長する友人や老いてゆく両親を見ながら、過去の記憶だけを持ったまま成長することなく生き続けなければならないあの世の世界がある。そんなことになって仕舞うくらいなら、特にしたいことが無くても言い訳をせず、他の人と違う道をひとりぼっちで歩く事になっても、生きている事が最高の人生なんだ。そんな風に解釈しました。
がんばって生きていれば そのうち きっと ちがう風景や自分の心が見えてきます。
 
   令和5年8月3日・・・私75歳の誕生日です

 昨日 買い物に行って (ただ単に車で移動のお手伝い) 、季節のイチジクを買い 夕方に食べました。今年の夏は極端に暑く雨も私の住む地方ではかなり少ない状況でした。それが無花果にとってはとても良い環境だった為か、見た目とは全く違ってこれ程美味しい果実を食べた記憶は近年ありません。1パック4個入りで家内と1個づつ食べると2個残ります。未だ帰宅していない家族が二人居ます。私があまりにもおいしい美味しいと言うので、「もう一つ食べたら?」 と言う執拗なお勧めで、そうまで言うのなら!ともう一つ食べました。少し時間が経ってからアッ!!・・・・・あした3日はM兄ちゃんの祥月命日。だから今日は暑い中お仏壇を磨いて掃除していたのに、お供えに置いておけば良かったなあと家内に言いました。私の70年前の誕生日と続く数日間の出来事や映像は幾つかが明瞭に記憶の底に在ります。M兄ちゃんは当9歳でした。家 (長屋賃借り) の前には無花果の木があり、夏になるともぎ取って食べていました。よく遊んでもくれました。8月3日、町内子供達大勢での水泳練習の川で姿が見えなくなったという知らせから始まり、布団に寝かされている姿・母親の悲しむ姿・引率者のうなだれる様子が無意識のうちに深く強く残っています。お葬式の日は兄ちゃんのクラスの人達がやって来ました。私はいちじくの下に腰掛けて「たくさんのともだちがきてくれるんやなあ」 となぜかニコニコしながら見ていました。その年から今日まで特に誕生日祝いはありません。
 私が中学2年生の頃、宿題でも課題でも無いのに作文を書いて先生に見て貰っていました。内容については覚えていませんが、その中の一つだけ消えないものがあります。それは、M兄ちゃんが9歳で死んでしまったのに自分はその年齢を超えてしまった事。でもやっぱりM兄ちゃんは兄ちゃんのままという不思議な感覚を綴った作文でした。今日この歳になってもやはり兄ちゃんです。兄ちゃんは死にたいなんて思ったことは無かった筈です。でもそれが兄ちゃんの宿命か運命だったのでしょうね。何かを考えることができる中学生になってからは、私は水の事故では死なないという根拠の無い強い思いを持ち続けてきました。同じ川でも何度も泳ぎましたし、一人で舳倉島へ行ってかなり深く素潜りをして遊ぶ事もしていました。
 M兄ちゃんは死にたくなかったはずなのに死んで仕舞った。私は兄ちゃんが優しくて元気だった7~9歳頃の断片的な記憶を持ったまま75歳を迎えました。この読書感想の 「ぼく」 のように自ら命を絶ってはだめですよね。少しくらい嫌なことがあっても辛いことがあっても、がまんして懸命に今を今日を生きていれば、それを懐かしく思い出せる日が来ます。人生は良いことばかり有るはずはありません。幸せ一杯、そんな風に見える他人様には私たちには思いもよらないような事を 「苦」と感じて生きている可能性が大きいものです。

             
吾唯足知・・・・・・われ ただ たるを しる (人生論ノート) 

難しいけれど とても大切な言葉だと思います。

             
遠い彼方の記憶  は私の実体験を綴りました



こんなサイトがあります
 あんな本こんな本サイクリング、遠い彼方の記憶、いのちの電話

あなたがつらいとき、近くにいます。  (inochinodenwa.org)


チャイルドライン® 18さいまでの子どもがかけるでんわ(childline.or.jp)


困った時の相談方法・窓口|まもろうよ こころ|厚生労働省 (mhlw.go.jp)




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