《私の本棚 第279》   平成31年1月3日号

    「無  明」  正月閑話

 私のような年齢になると、縁という言葉が自然と心に受け入れられるようになってきます。子供の頃はそんな風には感じられず、せいぜい 「袖振り合うも他生の縁」 ということわざを聞いて、覚えておけば試験に役立つかな?位のことだったでしょう。しかし歳を重ねるとともに様々な経験を通して縁というものの不思議さを感じる事が増えてきました。とは言っても、青壮年時代のみならずほんの 数年前まではそれを不思議と感じることも無く通り過ぎてきました。かつてとは違った意味で未来を思うようになった今、過去や現在の生活における縁を今更の様に感じる事が増えてきました。
 縁というものは人知では計り知ることはできないものですね。縁があった無かったなどと簡単に口にしますが、思えば思うほど不思議なものです。友人関係・仕事関係・夫婦、考えてみれば親子も縁です。生命の灯火を受けるまでは、地球上の全ての人達とは無縁でした。ご縁があって産声を上げた途端に多くの人達との縁ができ、成長とともにその輪が広がります。
 進学や就職という人生の岐路に立ったときの縁は更に難しいものです。本人の事を一番よく解っているつもりの親が、実はその根底にある苦しみを何一つ理解していないということもあります。そこから発する助言は、何の重みをも持たず逆効果という事もあるでしょう。本人は誰かの何気ない一言という縁に救われるまで苦しみ続けます。しかしそれらの縁も一筋縄ではいかず、何らかの出来事を切っ掛けにして、時には無縁になってしまうこともあります。ほんとうに合縁奇縁ですね。
 話しは変わりますが、昨年のGWには輪行 (※自転車を折り畳んで袋詰めにして携行、列車移動すること) で高知県平田駅に降り立ち、四国札所39番延光寺から香川県の67番大興寺まで自転車遍路をしました。元を振り返れば、平成二十八年五月五日早朝始業ベルの鳴る頃、車旅の途中で何気なく大川小学校跡地に佇んだことが始まりでした。目の当たりにした光景に打ちひしがれながら、子ども達の声を聞くような心持ちで詩「こどもの日」を書き、それはかつての洛タイ同年八月十七日号にも掲載して戴きました。同じ年の十一月二日夜、自宅から車で出立し、1番霊山寺から29番国分寺と68番神恵院から88番大窪寺迄を遍路。翌年GWには輪行で30番善楽寺から38番金剛福寺を遍路しました。遍路の辿り方としては型にはまっていませんが、昨年の67番大興寺で結願しました。
 この三年間ほど縁というものを感じた事はこれまでにはありませんでした。そもそも格別な思いも無く小学校跡地に佇んだのが五月五日ということ自体、何かしらのご縁で引き寄せられたのでしょう。
こどもの日を携えて車や自転車での遍路。その途中で出会った方々に二つ折りの印刷物を差し出し 「これを是非読んであげて下さい」 とお願いし、快くお受け取り戴いたのもご縁です。
 特に昨年の遍路では、多くの方々に七十四名の子ども達に思いを寄せていただく事ができました。本当に不思議と感じることが幾つかあります。縁というものは計り知ることはできないと先に言いましたが、まさににそのとおりです。詩を手渡した場所は、宿・札所・移動中・列車の中など様々でした。しかしその何れの場所でも、この人この子にというのは自分が思った結果の行為でありながら、そのように断言できないという気がします。60枚の印刷物を携えて遍路し、小学生の子供には是非手渡したいとの思いもありました。しかし、なぜあの時あの子には渡さなかったのか?判らないということも幾度かあります。
 その一方で、60番横峰寺での体験と最後の一枚を新幹線車内で幼子の親御様に手渡した時のことは、将来自分の記憶が薄れていく時がきても消えないと思います。言葉では言い表せないようなご縁の橋渡しができたと感じるとともに、おおぜいの元気な子ども達が嬉しそうに、 「おじいちゃん又ね!」 と言いながら東の空へ帰って行ったような気がしています。
 そのような経験をした為か歳のせいか、日常生活で出会う出来事を、自他共に縁というものを通して見る様になってきました。すると、遡るご先祖から自分達夫婦・子供・孫に繋がる縁も何となく一層見える気がします。更には身近な関わりのある人達を取り巻く縁も見えてきます。
 このような思いを投稿するのも縁ならば活字にしていただくのも縁、お読み戴くか否かも縁。今暫くのあいだ多くの縁を感じながら歳を重ねたいと思います。
鯉のぼり、あんな本こんな本タンポポ、あんな本こんな本




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