《私の本棚 第259》   平成30年1月1日号

  岩波書店日本古典文学大系より  
          平家物語 巻第四 「源氏揃〜橋合戦」

 京都府宇治市にある宇治橋は、近代に至るまで交通の要衝でした。地図を見ればよく分かりますが、琵琶湖を流れ出た水は瀬田川・宇治川と名を変え、更に八幡では桂川と木津川に合流し (天王山の戦で有名になる三川合流地点)、淀川となって大阪湾に注ぎます。これらの川の東西で交通が分断されていたので大変重要な橋で、この辺りは何度も戦場となっていました。
 平清盛の横暴な振る舞いには不満が渦巻いていました。あるとき後白河法皇の第二皇子、高倉宮以仁王 (もちひとおう) に対して七十五歳の源頼政がしきりに謀反を焚き付けます。 「高倉宮様は三十歳にもなってくすぶっておられる人ではない。皆、平家の世になびいているように見えるが、それはうわべだけの事です。宮様の為に馳せ参じる源氏は沢山います」 と。高倉宮は悩んでいましたが、少納言伊永(これなが)という優れた人相見がいて、「貴方は天皇になるべきお方です」 と断じたので、ついに決心し東国へ使いを送りました。この話はすぐに清盛の耳に入り、謀反発起の経緯を知らない清盛は 「高倉宮を捕まえて土佐の畑 (現、高知県幡多郡) へ流せ」 と源頼政の二男に命じます。
 高倉宮は急ぎ三井寺 (園城寺) へ逃げました。三井寺からは援軍要請の手紙を延暦寺へ送りますがなしのつぶてです。更には南都 (興福寺) へも手紙を送りますが返事が来ません。三井寺ではああでもないこうでもないと長々議論をしますが名案も出ず、取り敢えず南都へ落ちることになります。いよいよクライマックス橋合戦。高倉宮は南都へ逃げるため宇治橋 (宇治市) に至ります。昨夜よく眠れなかった宮を休ませるため、宇治橋の橋板を三間ほど剥がした上で平等院 (十円硬貨の図柄) に入ります。追っ手の約二万八千余騎は北から宇治橋の対岸袂 (京阪電車終点) 付近に集結します。血気はやる先鋒は後から続く味方に押し出されて二百余騎が宇治橋から川へ転落し溺死。迎え撃つ源頼政はここを死地と決め兜を脱ぎ捨てます。五智院の但馬という者は只一人橋の上に進み出て、射かけられる矢を飛んだり屈んだり、正面から来る矢は大長刀 (おおなぎなた) で切り落としたりと奮戦しますが及ばず。二万八千の兵は更に六百余の溺死者を出しながらも、梅雨間近の五月雨で増水している川を渡り平等院へなだれこんだのです。渡河の様子は、上流を渡る軍馬が水を堰き止めたので、下流では膝までしか水が無かったといい、足をすくわれて流され行く兵の様を紅葉の流れるようにと例えています。宮は三十騎ほどを伴って南都へ向けて逃れますが、これを察知した飛騨守景家 (ひだのかみかげいえ) 率いる五百余騎の軍勢によって、光明山寺の鳥居前 (現、木津川市山城町綺田小字鳥居付近) で脇腹を射られて討ち取られます。治承四年 (1180年) 五月でした。その頃源頼政は自分の首を配下の渡邉長七唱 (ちょうじつとなう) という者に打たせていました。唱は泣きながら、敵に見つからぬようその首に石をくくりつけて宇治川の深みに沈めました。
 宮が討ち取られて運ばれる様子を綴喜郡の 「に井のの池」 (解説には「山城国綴喜郡の贄野池か」 とあります。宇治田原町に 「贄田」 ねだという地名がありますがこれは無関係。城陽市史によると城陽市の長池という地名に残っているとされています) に体を沈めて恐怖に震えながら六条大夫宗信 (ろくじょうのたいふむねのぶ) が見ていました。首は討ち取られて無かったのですが、大切になさっていた小枝と称する笛が腰にありました。その頃南都の兵約七千は先頭が粉津 (現、木津) に達していましたが時既に遅しです。
 こんな大きなドラマがあったとは今まで知りませんでした。宇治橋から上流の眺めは、そんな出来事を思い描くのも難しいくらい穏やかなものです。参考資料や地図・写真を後掲しましたから、併せてご覧下さい。

 普通の読者として原文を頭注のお世話になりながら読み進める私には、言葉以外に難解な箇所が多々あります。
一つは記述の仕方が時系列に書かれているところと、何の前触れもなく突然ワープするところがあります。布団の中で毎夜少しずつ読むという横着な身には、混乱が生じます。和暦名を読んでもその後先が分からないのですから、どうしようもありません。
登場人物の呼称が一つでないのも読みにくさを増す原因です。全く別人の話にしては変だと思っていると同一人物だったということはよくあります。しかし何よりも、誰でもが知っていると言っても差し支えない流麗な響きをもつ冒頭の部分と、その後に続く文章の違いは注意すべき点でしょう。

  「祗園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。」

ここだけを聞き覚えていると、この古典籍はどれほど香り高い文章かと期待をしてしまいます。しかし平家物語は軍記物であり、全体として決して優雅な物語ではありません。
解説には明瞭に書かれていませんが、この最初の 「祗園精舎」 の段は後に続く物語の表紙やブックカバーの役割を果たしているのではないかと思えるようになりました。つまり琵琶法師にこの物語を弾き語ってもらうと、「祗園精舎」 の段から始まるわけです。これは少し乱暴ですが、「さあこれから幕が開くよ。何時の世も人生はお釈迦様の教えの通り、永遠不滅のものは無いんだよ。さあ平家物語が始まるよ」 という幕開きの口上部分のように感じるのです。そう思って毎回新しい段を読み始める前に 「祗園精舎の鐘の聲 …略… 偏に風の前の塵に同じ」 を読んでみるとしっくりするのです。叶わぬこととは承知ですが耳なし芳一さんの弾き語りを聴いてみたいとものだと思います。場所が壇ノ浦なら最高でしょうね。橋合戦の段などはクライマックスで盛り上がる琵琶の音色と語りに全身が包まれるようにさえ感じます。
 
あんな本こんな本







 
宇治橋、あんな本こんな本





 宇治橋

(少し下流に架け替えられています)


 
八幡の背割り堤、三川合流地点、あんな本こんな本




 八幡の背割り堤

 (天王山近く・三川合流地点)


 
奈良盆地、生駒山、あんな本こんな本





 若草山から奈良市街

 生駒山(後方中央やや右、電波塔の明り)


 
  前の頁、野  次の頁、閑話・あまるあれこれ  VolV.目次へ  VolV.トップ頁 

  Vol.U トップ頁 Vol.T トップ頁