《私の本棚 第245》   平成29年4月3日号

     「桜の森の満開の下」   坂口安吾 作

 小学低学年の頃に母親に連れられて 「桜の森の満開の下」 という映画を観た思い出があります。記憶では 「満開の桜の下」 だったのですが。この映画の原作が坂口安吾の物語であり1947年発表ということは最近知りました。ただ、私の観た映画がこれと同じかどうかは定かではありませんが、自分の生まれ年(1948年)と比べて間違いないようにも思います。
 主人公の山賊は山中で独居生活、正しくは七人の女房と暮らしておりました。ある日、あまりにも美しい女を拉致して戻ります。この女は六人の前妻を殺せと山賊に命じ、一番醜い女房だけを生かせます。山中で食するものは全て気に入らず、都へ出て暮らすように男に仕向けます。都へ出てからは夜ごとに老若男女の首を切り取ってこさせ、その新しい首或いは腐った首で遊び戯れています。
 ついに何もかもに興味を失った男は、女を無理矢理連れて山に帰ります。戻った男は背負って帰った女が鬼女であったことに気づきます。そこで女を殺すのですが、我が身もろとも桜の花に埋もれながら土に還りました。底流にあるのは、際限なく欲しいものを手に入れ、その結果あらゆる希望も目的もなくしてしまう人間共通の業・煩悩であるように思います。
 もう一つ梶井基次郎の作に 「桜の樹の下には」 というものがあります。こちらは1928年作ですから、坂口安吾がこれを読んで触発された可能性があります。こちらの作品では、桜があれほど見事な花を咲かせるのは、間違い無くその樹の下には馬・犬猫・そして人間の死体が埋まっているからだ。そうでなければあんな見事な花は咲かない。だから人はあの花の下で宴会をするのだ。自分も同じように酒が飲めそうな気がする。と書いています。(つまり、これだけ沢山の犠牲の上に戦い勝ったのだと、逆説的自戒でしょうか。)
 どちらも、現世で楽しい時間が持てるのは、そこに至るまでに多かれ少なかれ他人を踏み台にしている事を表しているのではないでしょうか。
 
弘前城、桜、花筏、あんな本こんな本



   弘前城 花筏
 
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