《私の本棚 第215》   平成27年1月号

     「私の日本地図---下北半島」    宮本 常一 著

 山口県周防大島生まれの著者は、文字どおり日本中を歩き膨大な資料を書きとどめた民俗学者です。あとがきにこう記しています。
『この半島が僻地化したのは、実は、明治後半から大正・昭和にかけてのことで、それほど古いことではなかった。恐山でイタコが口寄せすることすらが、ごく近頃のできごとであるのを、原始未開からの習俗のように説いているのも、中央の人たちが、国のはしばしに強いて未開の生活を見ようとしての意識がはたらいてのことにすぎない。(略)下北の村々をあるいていると、どの村にもたいてい一人は先覚者がいる。早くから世の中の動きを見て、自分の村をどうしたらよいかを考え、みんなで夜学会などをつくって勉強し、村の将来のことを考えて新しい産業を取入れたり、土地を開拓したりしている。』
 著者が初めて下北をおとずれたのは1940年のことで、目的はオシラサマについてしらべることでした。オシラサマ本体は木の棒を簡単に削ってあるだけで、そこへ毎年布を重ねて着させます。土地によっては二百枚近く着せてあるらしい。それだけ長く伝えられて信仰されているわけです。下の写真は岩手県遠野で撮影したものですが、続けてもう一枚撮ろうとするとシャッターが下りなくなりました。
 
遠野、オシラサマ、あんな本こんな本遠野、オシラサマ、あんな本こんな本







 
 外へ出ると復旧しましたが、ふと、安らかな時間を邪魔したのかと思ってしまいました。残念ながら普通の民家にはどのように祭られているのかは分かりません。詳しくは戦前に出版された「おしらさま図録」があったということですが、もう入手はできないそうです。著者はむつ市大畑から南南西の関根橋を経て恐山へ向かいます。大畑と関根の中間にある正津川にそって森林軌道があり、それに沿って月明かりの中、恐山まで歩いて上がったようです。丁度三途の川の橋の処です。恐山には硫黄採掘場があり、泊めてもらって近くの温泉に入ったと記しています。 
恐山、三途の川、あんな本こんな本恐山、境内の温泉、あんな本こんな本



 
 混浴だったらしいのですが、現在は男女別で入山者は何回でも無料で利用できます。何の飾り気もなく硫黄の臭いが立ちこめるいいお湯です。先に上がってから 「写真良いですか?」 と声をかけると気さくに 「どーぞー」 山内にはイタコの口寄せをしてもらう建物もあります。しかしこの口寄せは大正の終わりになってからとのことです。イタコは下北地方には少なく、本場は津軽で、金木町の川倉というところに小さな地蔵堂があり、地蔵祭には大勢のイタコが集まって夜を通して口寄せが行われていたといいます。大正10年に大湊線が開通してからは津軽から下北まで簡単に来られるようになったので、津軽のイタコが恐山の地蔵会に参加するようになってから商いになったらしいのです。しかし最近、あまりにも観光宣伝が効きすぎて、見物客を嫌がって先祖が下りてこなくなったと嘆いているといいます (1963年当時)。荒涼とした景色を歩くと大町桂月の歌が目に入ります。

                  「 恐山 心と見ゆる湖を  囲める峰も 蓮華なりけり 」
 
恐山、風車、あんな本こんな本





 
 山を下りて東方へ向かうと東通村(ひがしどおりむら)へ続きます。海岸沿いには当時育成された防風林が見えます。下の写真は野牛川風景ですが、かつては砂鉄が多く採れたといいます。砂丘を取り崩した後の平坦な景色でしょう。今は立派な道路が続いていますが、50年余前当時は両側から木が生い茂る未舗装の狭い一本道でした。 
野牛川、あんな本こんな本








 
いま此処には野牛川レストハウスがあって休憩設備になっています。村の特産品であるというブルーベリーのソフトクリームを食べました。なにより意外だったのは、女店員さんが余りにも垢抜けしていて都会のセンスを感じたことです。いまでも何も無いと感じるような土地、著者が歩いた頃は厳しさだけを感じるような景色だったろうと思う場所です。しかし、狭い海峡を隔てた直ぐそこが函館だから当然なのかもしれません。 
下北半島、岩屋の海岸、あんな本こんな本




 
 更に道を進むと岩屋の海岸から尻屋崎へでます。目の前は津軽海峡・北海道を望みます。ここも大間と大差なく本州の最北端と言って良いのでしょうが、船を持つ人たちの実感はそれ程最果てではなかったのではないでしょうか。少し海上を進めば函館や松前です。西の佐井村には材木を買い付けにくる船が沢山寄港し賑わっていたといいますし、函館へ行けば結構早い時期に時代の風を感じていたように思います。
 ゲートを潜ってここまで来ると、寒立馬の放牧領域です。かんだちめという名が表すとおり、粗食と寒さに強く一年を通じて放牧されています。私は馬は立ったまま眠ると思い込んでいたので、数十メートル先に子馬が倒れ込んでいるのを見て、てっきり死んだものと思いました。しかし周りをよく見ると他にもなんの屈託も無く巨体を横たえている馬がいます。どんな寒さにも耐えて、食べたい時に食べ、疲れたら横になる。体つきも頑強そのもの。野生の馬を間近に見るのは初めてでした。
 
下北半島、寒立馬、あんな本こんな本





 
 明治三年の春、会津藩士たちは斗南藩として下北への移住を余儀なくされました。陸路で移動した人たちは、晩秋に受け入れる宿も少なく、寒さで亡くなった人も多かったといい、入植先の生活は悲惨であったとのこと。道の駅みさわの敷地内には入植者のモニュメントや三沢市先人記念館があります。 
道の駅みさわ、入植者モニュメント、あんな本こんな本





 
 見学を終えて出ようとしたとき、館の若い男性職員が声を掛けてきました。尋ねられるままに答えていると、「今度新撰組の企画展をしようと思っています。京都も取材で行きました」 と気合いを入れて説明してくれました。「しかし松平容保さんも仕方ないとはいえ、藩士を置き去りにひどいですね」 と返しましたがそれには答えてくれません。東通村の海岸線やその付近を走っていると 「何にも無い」 という思いしか浮かんできません。勿論表面しか見ない旅人の感じ方でしかなかったでしょうが。1870年の移住当時の風景は想像すらできません。明治五年に残った入植者は凡そ五十戸といいます。著者が下北の僻地化は明治後半からと述べるように、二十年ほどの間に大きな波があったのでしょう。 
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