《私の本棚 第167》   平成23年2月号


    「反対言葉の群生地」 徳永 進 著  

 月刊図書の743号に寄稿された一文です。

著者はホスピス診療所の医師として、常に生と死を間近に看てこられた経験から考えを深められてきたようです。小見出しを抜き出してみると、「家族は親しい他人」 ・ 「告げる、告げない」 ・ 「生きて-と死んで-」 ・ 「円と楕円」 ・ 「有と無」 等について語られています。
 読書感想ではなく自分も一緒に考えてみたいと思います。一方向の言葉は視界が狭いので、反対言葉を発掘して人間や社会を見つめ直す作法を身につければ世界が広がって面白いだろうと言っておられます。
 家族は親しい他人という言葉は大学生の時、講演で鶴見俊輔氏が、家族の定義は 「家族は親しい他人だ」 と言ったのを聞いて、了解できる、救われると感じ、臨床の場で今もこの定義に助けられるそうです。なるほどそうですよね、自分の子供であっても自分自身では無い。子供の将来にあれこれと希望を脹らませはしても自分がその道を行くことはできない。子供の命が助かるなら自分の命がなくなっても良いとは、言葉としてだすことはできても実現は不可能。最愛の家族が病床でどれほど苦しんでいてもどうすることもできない。できることは精々、貴方の苦しみを自分の事のように (そう、絶対に自分の事ではない) 感じ悲しんでいる私達がそばにいるよと行動で伝える事くらいなのだ。また、病床の本人もそれだけで十分救われる。親しくない他人と違う点は、屋根と壁に囲まれて素の自分を出しつつ肩を寄せ合って寝食を共にしているという事くらいでしょうか。平成20年の新春に地方紙に投稿したことがあるが、自分と他者は絶対に時間と空間を共有することはできないのと同じである。共有していると思うのは、微妙な時間と位置の違いを意識していないだけの事である。 
 家族なんだから親子なんだからという考えを無軌道に広げると、個々が天から与えられた何らかの使命を無視して、恰も 彼、彼女等の人生は自分のものであると錯覚してしまう。親しくない他人とは違った意味で、親しい他人との関わり方も難しいものと思いを新たにします。

著者…鳥取市行徳のホスピス診療所 「野の花」 の院長(2011年1月現在)
  氏の「大きな問題と小さな問題」はこちら 
百合、あんな本こんな本




 温室栽培の百合

 
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