《私の本棚 第302》   令和3年6月13日号

      「好色一代女」  井原西鶴 作
      岩波書店・日本古典文学大系より

 第300号で 「好色一代男」 を書きましたが、今回はこの作品をご紹介したいと思います。
まず【労 (ろう) 女 (によ) のかくれ家 (が) 】の段から、少し長くなりますが一部を抜粋してご紹介致します。落ちぶれた女が突然の訪問者に、つい、自分の生い立ちを語り始めます。漢字の後のかっこ書きは書籍に振られたふりがなです。又、異字体に変換できないものは常用漢字のままとしました。

 【 原 文 】
其 (その) あまりに一代の身のいたづら、さまざまになりかはりし事ども夢のごとくに語る。
自 (みずから) そもそもはいやしからず、母 (はゝ) こそ筋 (すじ) なけれ、父 (ちゝ) は後花園院 (ごはなぞのゐん) の御時、殿上 (てんじょう) のまじはり近 (ちか) き人のすゑずゑ。世のならひとてをとろひ、あるにも甲斐 (かひ) なかりしに、我自然 (しぜん) と面子逶迤 (かほばせなよやか) にうまれ付 (つき) しとて、大内 (おほうち) のまたうへもなき官女 (くはんぢょ) につかへて、花車 (きやしや) なる事ども有增 (あらまし) にくらからず、なを年をかさね勤 (つと) めての後は、かならず惡 (あし) かるまじき身を、十一薉 (さい) の夏はじめよりわけもなく取乱 (とりみだ) して、人まかせの髪結 (かみゆふ) すがたも氣に入らず、つとなしのなげしまだ、隱 (かく) しむすびの浮世髺 (うきよもとゆひ) といふ事も、我改 (あらため) ての物好 (ごの) み、御所染 (ごしょぞめ) の時花 (はやり) しも明暮雛形 (あけくれひながた) に心をつくせし以來 (このかた) なり。されば公家 (くげ) がたの御暮 (くら) しは哥 (うた) のさま、鞠 (まり) も色にちかく、枕𨻶 (まくらひま) なきその事のみ見るに浮 (うか) れ聞 (きく) にときめき、おのずと戀を求 (もとめ) し情 (なさけ) にもとづく折から、あなたこなたの通 (かよ) はせ文皆 (ぶみみな) あはれにかなしく、後 (のち) は捨置 (すておく) 所もなく、物每 (ものごと) いはぬ衞士 (ゑじ) を頼 (たの) みて、あだなる煙 (けぶり) となすに、諸神書込 (しょしんかきこみ) し所は消 (きへ) ずも吉田 (よしだ) の御社 (みやしろ) に散行 (ちりゆき) ぬ。戀程おかしきはなし。我をしのぶ人、色作 (いろつく) りて美男 (びなん) ならざるはなかりしに、是 (これ) にはさもなくて、去 (さる) 御方 (かた) の靑侍 (あをさぶらひ) 其 (その) 身はしたなくて、いやらしき事なるに、初通 (しょつう) よりして文章 (ぶんしょう) 命も取 (とる) 程に、次第ゝゝに書越 (かきこし) ぬ。いつの比 (ころ) かもだもだとおもひ初 (そめ)、逢 (あは) れぬ首尾 (しゅび) をかしこく、それに身をまかせて浮名 (うきな) の立 (たつ) 事をやめがたく、ある朝 (あさ) ぼらけにあらはれ渡 (わたり)、宇治橋 (う ぢばし) の邊 (ほとり) に追 (をひ) 出されて、身をこらしめるけに、墓 (はか) なや其 (その) 男は此 (この) 事に命をとられし。其 (その) 四五日は現 (うつゝ) にもあらず寢 (ね) もせぬ枕に、物いはざる姿を幾度 (いくたび) かをそろしく、心にこたへ身も捨 (すて) んとおもふうちに、又日数 (かず) をふりて、其 (その) 人の事はさらにわすれける。是 (これ) を思ふに、女程あさましく心の變 (かは) るものはなし。自其 (みずからその) 時は十三なれば、人人も見ゆるして、よもやそんな事はとおもはるゝこそおかしけれ。
 古代は、緣付 (えんづき) の首途 (かどで) には親里 (おやさと) の別 (わか) れをかなしみ、泪 (なみだ) に袖をしたしけるに、今時の娘 (むすめ) さかしくなりて、仲人 (なかうど) をもどかしく、身拵 (みごしら) へ取 (とり) いそぎ、駕籠待兼尻 (のりものまちかねしり) がるに乘移 (のりうつ) りて、悅喜鼻 (えっきはな) の先にあらはなり。此 (この) 四十年跡 (あと) 迄は、女子 (をんなご) 十八九までも竹馬 (たけむま) に乘りて門 (かど) に遊び、男の子も定 (さだ) まつて廿五にて元服せしに、かくもまたせはしく變 (かは) る世や。我も戀のつぼみより色しる山吹の瀨 (せ) ゝに氣を濁して、おもふまゝ身を持 (もち) くずしてすむもよしなし。

 【現代風に書きかえてみました】
正月の七日に男二人が嵯峨 (京都) に向けて歩きます。この二人は色の道に関しては、死ぬまで女と楽しみ呆けて暮らしたいと思う者と、方や女の居ない所で静かに暮らしたいという両極端な若者です。会話をすればするほど頭は混乱し、桂川沿いの草むらに分け入ってしまいますが、どうにか目的の 「好色庵」 と額の掛かった庵に辿りつきました。案内も請わずに入ってゆくと、老女が出てきましたので、有無を言わせずに酒を勧めます。老女は酒に酔って心がふわつき乱れ、つい自分の生涯を夢でも思い出すように語り始めました。
 私の生まれは賤しいものではなかったのです。母親は話せる程のものでは無かったのですが、父親は後花園院の時代、殿上人のおそば近くに仕えた人の子孫でした。しかし栄枯盛衰の世の習い、落ちぶれて生き甲斐もないような生活になりましたが、私は生まれつき顔がしなやかで美しかったので、宮中最高位の女官に仕え、その風流で上品な生活にもほぼ慣れました。そのまま何年か辛抱していれば、必ず位が上がってゆく筈の氏素性であったのに、十一歳の夏の初め頃からどうしたことか分かりませんが浮ついた心になって、髪型も係の人任せのかたちでは気に入らなくなり、投島田、元結も浮世髺にしていたのは私の希望に依ってでした。女院の御所から庶民に流行りだした染色も私が始めたことでした。そもそも、公家方の暮らしは和歌のように上品でたおやか、蹴鞠の鞠も艶っぽいし、常々まぢかに男女の秘め事を見ると心が浮つき、男女のうわさを聞けば胸がときめいて、自然と色恋を求める気持ちが心から離れなくなりました。そんな折に方々から恋文が届きましたが、どれもみなやるせない思いを綴ったもので、置いておく場所もなくなってしまうので、口の固い宮中の守衛に頼んで燃やしてもらいましたが、彼らの心は神に誓って真実であるという神々の名を記した箇所は燃えないで、吉田神社の方へ飛んでいきました。
 戀ほど不思議なことはありません。私に思いを寄せる人たちはお洒落で格好良く美男子ばかりなのに、この人たちには何の気持ちも起こりませんでした。しかし、ある身分の高い人に仕えている下っ端侍が、最初の恋文からまるで命を削るかのようなもだえ苦しむ様子で書き送ってきました。これが度重なるといつの頃からか私も、もやもやと気持ちが惹かれるようになり、逢うことができない場合でも上手く口実をもうけて逢っておりました。それがついにある朝発覚して罰として宇治橋付近に放り出されてしまいました。むなしいことに其の男は重い罪として処刑されました。その後四五日は夢うつつの枕元に、何も話さない男の姿が何度か現れて恐ろしく、残されたわが身に苦しんでいましたが日数が経つとその男のことはすっかり忘れてしまいました。つくづくと、女ほど浅はかなものは無いと思います。私はその時十三歳でしたから、回りの人たちからはまさか色恋などでは無かろうと大目に見られていたことは変なものです。
 昔は、嫁入りの晴れの門出には、独り立ちしていく別れを悲しんで泪で袖を濡らしていたものですが、今時の娘はしっかりしたもので、仲人のなかだちなどはじれったくて、大急ぎで晴れの衣装を着、花嫁駕籠にはいそいそと乗り込んで露骨に嬉しそうなそぶりをみせています。四十年ほど前迄は、おなごは十八九まで竹馬に乗って家の周りで遊びおとこも廿五で元服していたのに、このようにせわしく変わる世の中になりました。私もほんの少し戀っぽい気持ちを知った頃から、その後、色恋のあらゆる濁りを経験し自分の気持ちに任せてわが身を持ち崩し、今更心が澄むわけでもなくこうして生きながらえてこの庵に住んでいるのも仕方のないことです。


管理者注:この竹馬は竹の竿を股に挟んで馬に見立てた遊びか。女子も男子も十歳ほど年嵩に表現 (息継ぎにやや面白可笑しく) しているのではないかと推測します。
全体のイメージを掴みやすくするために ここからは幾つかの段を簡略に見ていきます。原文に忠実というわけではありません。
 
巻一


 【舞曲遊興 (ぶきょくのゆうけう) 】
萬治 (1658年~1661年) の年に一人で八つの楽器を演奏する曲芸が始まり、酒の席で披露することから、同じ場で小娘を若衆の様に仕立てて酒の接待をさせるようになりました。親方は色仕掛けで丁銀一枚で思い通りになると持ちかけた上、酔った勢いの男からしこたま搾り取っていました。自分はこんな商売で身を立てるつもりは無かったのですが、この風俗が好きで止められなく、募る淫ら心のままに宇治の里から通っていました。あるとき縁があって夫婦に引き取られたが、ある夜ご亭主を誘惑して追い出されました。
  ※この段は、所謂、女衒と淫売について触れています。
 【国主の艶妾 (こくしゅのゑんせう) 】
奥方に先立たれた大名が江戸詰と決まった折、世継ぎの無い事を心配したお付きの侍が良い後添えをと探し、百七十人余りをめあわせたが気に入られる女は居ませんでした。そんなとき私の噂を耳にして、木幡の里を敬遠して隠れ住んでいる宇治に来て大名に妾としてめあわせられました。しかし、殿様はお勤めおろそかに枕を交わしましたので、次第に殿がやせ細ってこられると、都(京)女の色好みが原因であるとして、家老の指図で追い出されたのです。 
 【淫婦の美形(ゐんぷのびけい)】
その後太夫 (最上位の遊女・花魁) となって華やいだ淫婦として生きていましたが、私を相手にしてくれる男に辛くあたるような事ばかりをしていると、次第に客が付かないようになり太夫の位を剥奪されて天神になってしまいました。

 巻二

 【淫婦中位 (ゐんぷのちゅうゐ) 】
天神になると何から何まで待遇が下がり、道行く人からはある事無いこと悪い評判を立てられました。自然と客に対する振る舞いも太夫のそれではなく並の淫婦の風情に馴染んできます。とうとうはやり風邪にかかってしまい、髪も薄くなって尚更人に見捨てられるようになると、鏡も見ないようになりました。
 【分里数女(ぶんりのすぢょ)】
そんな商売の仕方をしていると、階級は更に十五 (かこひ) 女郎 (注:囲いは揚代が十五匁であった) に成り下がりました。落ちぶれた境遇は哀しいものです。しかし実際はもっと格下の見世女郎になって三匁ほどで客をとっておりました。しだい次第に客をたぶらかす言葉も巧みになって、安い遊びなのだから又来ようと思うように仕向けておりました。遊女の勤めは十年のところ、私は十三年勤めましたが (二十六歳) もう雇ってくれる売春宿も無くなり、伏見から船に乗って再び普通の世間にもどりました。
                               (十石船か三十石船で大阪(難波)へ戻ったと暗示か)
 【世間寺大黑(せけんでらだいこく)】
昔取った杵柄、身なりを生娘風にしたかと思えば、生臭坊主の寺に入り込むために衣装も若衆に扮して頭を中剃したりしました。このお陰で淫売商いは大繁盛。私は大黑様になりました。生臭坊主とは随分上手くやっておりましたが、白髪と顔の皺に加えて男をそそるような肉好きも無くなってくると片隅に追いやるような扱いになりました。それで有りっ丈のものを貰って出ようと算段し、子を孕んだ振りをして裁判沙汰にならないように工夫して大手を振って出て行きました。 
 【諸礼女祐筆(しょれいおんなゆうひつ)】
私はそれなりの生まれですから筆と言葉使いは達者でした。縁あって下女を使いながら他人の息女を預り、手習所として身を立てていました。あるとき、恋を盛りの青年から恋文の代筆を頼まれ、ああだこうだと書き綴っていました。そんなときふと淫乱の心が蘇り、こんな手間を掛けているよりも私といい仲にならないかと誘い、首尾良く昼夜の別なく楽しみを交わす仲になりました。その結果男は一年も経たないうちに精力増強の食事も効き目無く、空しくやせ細った老人のようになり、医者からも見放されてしまいました。

 巻三

 【町人腰元(てうにんこしもと)】
独り暮らしは面白く無く、手習所を止めて大きな呉服屋へ腰元づかいにでました。ここでも上手くうぶな娘のように見せかけて姥様から可愛がって貰いました。しかし淫ら心は修まらず、夜に肴入れの番をする親仁をたぶらかしたり、大旦那様を誘惑して奥様の言いつけを無視したりしていました。それが更につのって奥様を呪い殺そうとしましたが上手くゆかず、反対に自分が呪われた状態になり、紫野の辺りを男が欲しいと口ずさんで歩いたり、果ては伏見稲荷の鳥居近くで素っ裸になっている自分に気づく始末。因果応報と後悔しました。
 【妖孽寬濶 (わざはひのくはんくはつ) 女】
或る時、さる大名家で表使いのお勤めをしていました。蹴鞠などして優雅なお遊びもしましたが、ある日御前様がもっと鬱憤晴らしのできる遊びを望まれました。人形を取り出してお付きのものが代わる代わる人形を小馬鹿にして痛めつける遊びの順番が回ってきたとき、御前様の気持ちが晴れ渡るような芝居をしたところ、人形が目を開いて立ち上がり御前様の着物に取りついたのを、ようやく引き離しました。この人形は屋敷の片隅で焼き払って埋めました。しかしこの事はお大名様の耳に入り、その結果奥方様は家庭内離婚状況になられたのです。わたしは嫌気がさして上方へ戻りました。
   (段の展開は 次第に落ちぶれてゆくばかりで無く 盛り返してみたりと西鶴の苦労が感じられます)
 【調謔哥船 (たはぶれのうたふね) 】
安治川・道頓堀川・北浜・木津川口は船で移動したりする人も多く、夜間に停泊している時、慰めの色遊びをする者も多くありました。私もこの界隈で黒髪を剃り落として、比丘尼 (姿をした) 女親分を頼って暮らすようになりました。高が三匁ほどの遊びでも、頻繁になれば三人の男の身代をつぶすことにもなりました。しかしそんなことは私の知ったことではありません。
 【金紙匕髺結 (きんがみのはねもとゆひ) 】
あるとき、さる御方へ髪結いの奉公をいたしました。近年は遊女かぶれの髪型や服装をするおなごも多く、見てくればかりを氣にするような歌舞伎ものまがいなご時世。早朝にお屋敷に参りますと、未だ二十歳にもなっていない奥方が、何事も口外しないと神に誓う言葉を書くように言われました。内心は少しの悪戯心は良かろうとおもいつつ誓詞を書きました。暫くするとそれは奥様の髪が余りにも薄く、それを殿様に分からないように細工してあることを口止めするものと知りました。猫に髪にじゃれつくように躾けると、上首尾に殿様の前で奥方の髪細工を剥がしてしまい、それ以後は殿を私の思うままにしました。

 (巻四から巻六は見出しのみ表記しました)

 巻四
 【身替長枕 (みがはりのながまくら) 】
 【墨絵浮氣袖 (すみゑのうはきそで) 】
 【屋敷涿澁皮 (やしきみがきのしぶりかわ) 】
 【栄耀願男 (ゑようのねがひおとこ) 】
 巻五
 【石垣戀崩 (いしがけのこひくづれ) 】
 【小哥傳受女 (こうたのでんじゅおんな) 】
 【美扇戀風 (びせんのれんぷう) 】
 【濡問屋硯 (ぬれのとひやすゞり) 】
 巻六
 【暗女昼化物 (あんぢよはひるのばけもの) 】
 【旅泊人詐 (りよはくのひとたらし) 】
 【夜撥附声 (やほつのつけごゑ) 】
 【皆思謂五百羅漢 (みなおもはくのごひやくらかん) 】

 300号の好色一代男は 金に任せて遊び呆ける男の話でした。しかしこの物語は、落ちぶれたとは雖も中々由緒ある家柄の娘で有り、しかも数年の宮仕え奉公をしておれば又 遠くないいつの日か花の咲くこともあろうかという 十歳そこそこの娘が、自らの淫ら心を抑制できずに人の世のどん底に落ちてゆく物語です。後花園院に直近ではなくとも近くでお仕えした家系。一般庶民からすれば仰ぎ見るような育ちの娘です。現代に置き換えるならさしずめ宮内庁勤めの高い地位にある女官と言えるでしょう。
 【舞曲の遊興】の段を読んでいますと、所謂 女衒 という職業が江戸時代の萬治・寛文のころから始まったように思えます。

  ※女衒ぜげん…広辞苑に依ると ( 「衒」は売る意、 江戸時代に、女を遊女に売ることを業とした人。判人はんにん ) とあります

 西鶴は寛永19年 (1642年) 生まれで八人芸が始まったのは1660年頃ですから、当時18歳の西鶴が物語の中に組み込んだ話しとしても信憑性があります。この女主人公のような道を辿るのは、大半が貧乏で親に売られた人でしょう。
  (大正末期から昭和初期にかけて実在した花魁の手記があります 「春駒日記…吉原花魁の日々」 )
そのような身の上で個人として売春をしていた 淫売 女性の歴史は、更にもっと過去に見ることができます。遊び女として芭蕉の奥の細道にもでてきます。
 (この辺りの事は山本茂実氏の「あゝ野麦峠」で、強制労働(売春ではなく) として判りますし、同情をもって読み進めることができます。)
売春防止法という法律は存在しますが、世の中の実態はさほど機能しているとは言い難いもののようです。動物の世界で 「性」 に惹かれることは何も不思議ではありません。しかし一方では 何かしらのつまずきから、その世界から抜け出せないで苦しんでいる女性も沢山おられるのでしょう。

女衒は言葉巧みに物腰柔らかく、女性の気に入らない事は言わず行わずに近づきます。世間の怖さを知らないおぼこい娘は、いつの間にか女衒に洗脳されて思うままに動かされます。財産がある家の娘ならそれを食いつぶされるでしょうし、無い家の娘でも見た目が良ければ淫売(売春婦)にされてしまう可能性があります。端的に言い換えれば 女衒とは 竹の枝竿で鯨を釣り上げるようなものでしょうか。このような男女のペアは我々が知らないだけで、相当な人数に登ると思われます。
 一代女の主人公は ある意味に於いて 女衒であり淫売だったようです。幸い家庭が無かった設定ですからこの女一代で終わりますが、若しも家庭を持ったとしたなら子孫末代に至るまで 女衒と淫売の家系 になったでしょうね。  現代文学では田宮虎彦の 「牡丹」 を思い出しました。
 

あんな本こんな本、あんな本サイクリング、優曇華の花、クサカゲロウの卵 


 優曇華の花・ 騙される事なかれクサカゲロウの卵

 ( 想像上の花で 三千年に一度咲くといわれる。

  珍しいという意味をも込めて吉兆・凶兆の花言葉有り )


あんな本こんな本、あんな本サイクリング、遊郭、京都島原、大門 


京都 遊郭 島原大門

 JR京都駅からさほど遠くありません。

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 遊郭 大門脇の碑

 磨き上げられた碑の為 
 前景が映り込んでしまいました。



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