《私の本棚 第242》   平成29年1月号

     「〜彼女の歌詞あれこれから〜」  中島みゆき

 「糸」 という歌を聞きたくなってCDを借りました。全て彼女の作詞作曲です。しかし他の曲も歌詞を目で追いながら聞いていると、登場する知らなかった生き様を色々と聴かせてもらいました。
私が中島みゆきが好きかどうかと言えば、余り好きではありませんでした。一時流行っていた 「地上の星」 も、あの歌い方が好きになれなかったのです。演歌でも素直に聞ける唸りもあればそうで無いものもあります。男には雄叫びと表現されるものがあります。今は男女平等と言われ、男は・・・女は・・・という言葉は御法度です。しかし人類進歩の歴史から、男性は雄叫びの性で女性はどちらかというと静かな叫びの性でしょう。中島みゆきには雄たけびの歌が沢山ありそうです。雄たけびはしっくりきませんが、かといってメ叫びというわけにもいきません。女性が心の底から叫ぶ呻き、手先は水面に出るが顔は出そうで出ないもどかしさ苦しさに近いものを感じます。

「糸」は、

 決して順調に過ごしてきたのでは無く、夢を持ちつつも多くの失敗を重ねて悩み苦しんできた少年少女時代から、成長したお互いを理解し合える男女の巡り会いや人生を語っています。夢を持ちながら生きてきたけれど、けつまずいたり転んだりばかりの過去。どんな縁があったのか、なぜ今あなたと出会う事になったのかは分からない。お互いにあなたの過去の全てを理解することはできないけれど、苦しさや辛さを理解できる家庭を作ることはできそう。こんな二人だからこそ、誰かの傷を時には優しく包み込めそうな気がする。あなたと出会えて本当に仕合わせですと語っています。  
 歌としては此処までの解釈で充分だろうと思います。しかし少し拡大すると。お互いの傷の深さや箇所までは同じでは無い。だから完全には理解し合うことはできない。傷同士が擦れ合って、なんでこうなるの?っていうすれ違いもでてくる。でも大抵みんなそうやって暮らしているんだ。だから、ツルンとした絹布よりも羽毛だった裂き織り夫婦で良いんじゃないのと。

「狼になりたい」は、

 チョット悪ぶってみたい年頃の少年が、狼になれそうでなれないもどかしさ。昨夜、格好を付けた新調のアロハシャツを着て、一世一代、女の子をナンパしてきたけれど、行く当てもなくその辺をウロウロしてきただけ。折角のアロハは雨でヨレヨレ、女の子の化粧もボロボロ。仕方なく牛丼屋に入って時間を潰す僕たち。時間ばかりが過ぎていく。何だか今日に限って夜の明けるのが速いように感じる。明け方の吉野屋で二人並んで丼を注文する。もう子供じゃないんだって言いたいけれど、やっぱり子供かなと諦め。キメきれない不格好さ。悔しまぎれに、一人で飯を食っている親父のことを俺より格好悪いと決めつけてみる。せめてビールを注文することで何とか踏ん張っている僕。僕だって大人の雄々しい男の仲間入りをしたいんだというか弱い叫びを、中島みゆきが女々しさの残る少年に代わって歌っています。

「化粧」は、

 夕暮れの太陽が沈みきる間際のような心の時間帯を、精一杯意地を張って生きている女心が良く伝わってきます。女だからといって化粧なんてしなくても、心が美しければそれでいいじゃないか。見た目で男をだますような生き方をしなくても。そう思って生きてきた。わたしの心情を吐露する手紙をあんたに何通も書いてきた。でも振られて初めて気づく男心と鏡の中の自分。やっぱり化粧もした方が良かったのか。化粧をしていれば、こんなに愛した男に捨てられることも無かったのかもしれない。今夜は最後として会いに行くけれど、誤解しないでよあんたに未練があるわけじゃ無いんだ。わたしがあんたに送った手紙を、新しい彼女と笑いながら読まれるのが嫌だから返してもらいに行くだけなんだ。わたしはこんな位で泣いたりなんかしないよ。あんたの見ている前では絶対にね。わたしを振ったようなあんたのために、涙なんか流してやるもんか。でもやっぱり、一度だけでいいから他の女に走った事を後悔させたい。だから今夜だけは化粧をして、奇麗になってあんたをハッとさせたい。そしたらもういつ死んでも心残りはないわ。負けるもんかこんな事があったってと、涙を堪えて自分を慰めながら。

「ファイト」は、

 未だほの暗い村、薄明の時間帯。殻を脱ぎ捨てて広い未知の世界に出て行きたい。はっきりとした言葉にできない夢と現実的な大人の厚い壁。そんな息苦しい時間帯を懸命に生きる少年少女達を、勇気づけると思います。わたしは中卒という理由で仕事に就けなかった。悔しい。でもわたしにだって悪い所はある。他人の困難を見て見ぬ振りをしてきた弱いところがある。そんなわたしを変えない限り、なんにも変わらない。村にはムラのしきたりや習慣がある。ここに住む限り守っていかなければいけない。もし都会に出て行こうとすると、年寄り達がむりやり引き留めようとする。でもわたしたちは自分の未来に向かって頑張って生きて行かなければいけない。このまま年を取ってしまってはいけないんだ。どんな未来があるのかわからないし、途中の困難も想像できない。傷ついてしまうかもしれない。でもどんなに傷ついても希望に向かって頑張っていこう。大人の価値観で子供の方向性を決めようとする。子供達は、「そうじゃないんだよ、恐れと不安でいっぱいだけど、何かを思い切りやりたいんだよ」そう言っています。瀧本哲史氏の 「ミライの授業」 にある 「世界を変える旅は、『自分を変えること』からはじまるのだ」 という言葉が思い浮かんできます。ファイト! ファイト!!。

「ヘッドライト・テールライト」は、

 ここに取り上げた歌、糸・狼になりたい・化粧・ファイト等の心を全て含んでいるようにも感じました。高村光太郎の詩 「道程」 にも繋がるように思います。年齢に応じた様々な困難を乗り越えなければならない時がある。上手く越えられる時もあれば無数の傷を負うこともある。目的へ向かう道筋さへ分からないことも多々ある。だけど泣いてばかりいられない。打ちひしがれてうつむいてばかりいられない。自分なりに精一杯歩いて行かなければならない。懸命に生きているとなかなか気づかないけれど、大勢の人達とすれ違う。時には同じ方向へ、また時には反対へ進む。道は無数にある。左へ右へ、登ることも下ることも。前から来る車のヘッドライトに目がくらむ事もあれば、私のライトに幻惑される車もある。すれ違う車のテールライトをバックミラーで見ている。相手の車も多分同じように見ているだろう。ヘッドライトは自分が進む方向を照らす。テールライトは歩んできた道にうっすらと明かりを残す。私の名前を知っていてくれる人がいなくても、私がどんな人生を歩んできたかを知ってくれる人がいなくても構わない。一生懸命に歩くことが大切なんだ、と。もちろんの事ですが、日頃の私には身近でない世界を表現した歌もあります。しかし切々とその気持ちを訴えてきました。たまには馴染みのない歌を聴くのも良いものです。初めて聞くと、「なんだこの変な歌は?」 と感じることがあります。過去には石川さゆりの 「転がる石」 がそうでした。しかし何十回もリピートしていると、次第に自分の中に溶け込んできて、今ならそんなに下手でも無く (?多分) 歌えます。

 中島みゆきという人は毎年新曲を出しているようです。私はこのことをシンガーソングライターとしての切り口ではなく、一人の人間の人生として見てしまいます。若い頃から多くの歌を作り続ける。彼女の場合それは取りも直さず、その年代や時代に於ける中島みゆきという個人の思索の足跡であるように感じてしまいます。彼女が家庭を持っているのかどうかは知りません。もし家庭があり子供がいたなら、彼女が歌った歌は遺言として子孫に残って行くでしょう。彼女くらいになれば、意図はどうであれ、ステージでの振る舞いや歌声、歌詞は記録として残ります。ヘッドライト・テールライトの詞のように、彼女の足跡が短い時間や雨のために簡単に消えることは無いでしょう。語り継ぐ人がなくなるのは想像以上の時が必要だと思います。
 手許に永田紅という生化学者で歌人の短文があります。故河野裕子という歌人の娘さんです。父子三人で遺された歌集から千五百首を選んで再編集し出版されました。その過程で 「親が生きているうちは中々親の仕事には触れようとしない。身近すぎる油断もあるし、気恥ずかしさや反発もあるだろう」 と言っておられます。一人の人生と他者との関わりは、凡そそんなものだろうと思います。
白川郷、であい橋、あんな本こんな本 






  白川郷 であい橋
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