《私の本棚 第232》 平成28年3月号
俘虜記は第52号で紹介しました。野火は読んだことがあるかどうか、多分なかったのでしょう。たまたま映画の案内を見て、何がなんでも見たい。先ず映画を見に行きました。塚本晋也監督、2015年7月25日封切りでした。 見る人によって色々でしょうが、人間というのは極限状態に置かれると同じ様な行動を取るであろうとは思います。人肉食 (カニバリズム) という言葉で思い起こすのは第一に、ナチスによって収容所に閉じ込められたユダヤ人精神科医のフランクルによる 「夜と霧」 です。氏は解放後に自分が精神異常を来さなかったのは、他の者達のように人肉食をしなかったからだと回想していました。別の書では、当時ヨーロッパ全体でも極端な食料不足でしたが、見事な肉が陳列されている牛肉店があったといいます。戦争だけではなく、多くの人の記憶にもあるであろう、雪山に不時着した旅客機の生存者の告白。海難事故で救助された人が不思議と艶々していたという事例。パプア・ニューギニアでは古くは戦いに勝った者が儀式として敗者の肉を食っていたと言います。 この作品は戦場という暴力が支配する中で、極端な飢餓状態に置かれた者が何を考えどう行動するかという事を表現しています。主人公の 「私」 が未だ人肉を食らう前に考えたシーンがあります。 『私の左半身は理解した。私はこれまで反省なく、草や木や動物を食べていたが、それらは実は、死んだ人間よりも、喰べてはいけなかったのである。生きているからである。』 「私」 はこの後、猿の肉とだまされてを人肉を食らう。しかし心の片隅で欺されていることを受け入れてもいる。そして積極的に殺した上でその新鮮な肉を食らう者を目撃します。 ここに書かれているような事は、実際にあったであろう、少なくとも無かったとは断言できないと思います。戦そのものが狂気の沙汰であり、人類の希望は別としてそこから完全に無縁にはなり得ない。平時であれば殺人は犯罪であり、戦に於いては立派な行いとなるという事実を幼子 (小学低学年頃) 時代に、子供らしく冗談めかして父親に言った記憶があります。これは正に善悪の基準が状況次第でどうにでも変わるということの証左です。 作者は三木清の人生論ノートを読んで、その記憶が新しい時期に前半を書いたと思われます。従ってその部分は小説としては理屈っぽく些か読みづらく感じます。 |
けいはんな サイクルレース |
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