《私の本棚 第354》   令和7年9月7日 号

「徒然草-第百八段  兼好法師 著

 
 八月の初め頃から少し気になる事があり、意味が無いわけではないが、さりとて何らかの成果があるというものでも無い事に時間をかけて居ました。そんな中で、文庫本 「きみの友だち」 と 漱石全集 「明暗」 を同時に読んでもいました。「きみの友だち」 は読了しましたが、前述のこれという成果不明の事にひきづられて、構成や登場者に対して頭の中が整理できません。更には、作品中の僅か数行に対して著しい否定的感情を抱いた為、今は読み直そうという気も湧きません。
 「明暗」 は漱石最後の未完作品。しっかり読んで深く理解し、感想文を書きたい。しかしこのような状態下ですから、それもはかどりません。まるで煩悩にかき乱されて居るかのような状況です。そんなときふと浮かんできたのが、煩悩に絡めて百八と徒然草でした。
 「日本古典文学大系」 に依ると、兼好法師の著作ですが、きっちりと纏めて書き置かれていたのでは無く、様々な形・場所に放置されていたものを、今川了俊と兼好の侍者であった命 松 丸(めいしょうまる)とが取り纏めて、二冊の草子にしたということです。「徒然草」 という書名も了俊に依ってつけられました。
 私自身は、失礼ながら多くの方々と同様に、何となく未だ若いと思って生きてきたようです。四十代・五十代・六十代、しかし喜寿を迎えた今、そうは思えなくなりました。両親や縁者の没年齢に重なってきます。しかし、だからといって何をすれば良いと明瞭には浮かんできません。しなければ為らない事はほぼ無いともいえます。しかし、やりたいことは確かにあります。それは格別高尚な事ではなく、健康な間にもっと気ままな車旅をしたいとか、可能な間は本を読みたいとか、できるなら何かを書き残したいとか、人生の終焉に近づいてなし得る些細な事です。
 どれほどの専門知識や技術・技能を持って世に貢献してこられた人達も、期間の長短は有れど、人生の終わりには似たような霧につつまれる時期があろうと想像します。究極的には、今まさに現世とお別れするであろう走馬灯を見る刹那に、「良い人生だった」 と思えるか否かが、絶対的な自分自身への評価であろうと思います。できることなら 「良かった」 と思いたいですね。
 歳をとってから突然にできることではありませんが、まだまだこれからという年代の人達は、対象は何であれ一つ、生涯関わりたいと思うことを見つけておくことも、大切な事と思います。

 
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